破門柘植(つげ)(とら)次郎(じろう)

桜が満開になり、やがて散り始めても道場には行かなかった。もちろん中学の部活にも出ていない。一日中部屋に籠り、武道のあり方と剣の振るい方、そして「虎」について考え続けた。

(三人もの人間に大ケガをさせておきながら罪の意識も良心の呵責もなかった。人として何かが壊れているのではないか)

(降りかかる火の粉を払って何が悪い)

(お前の剣は凶器だ。激情に任せて振るう殺人剣だ)

(自ら戦いを求めた訳じゃない。やらなければやられていた。身を護るためには仕方がなかった)

(殺人剣はいずれ身を滅ぼすぞ)

(本来、武道とはそういうものだ)

多くの武道が戦場での格闘術、つまり、いかに効率よく敵を倒すか、自分が生き残るかを追求するところから生まれたものだから、弁護する虎次郎は事の本質を言い当てているように思えた。

一方で「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」と謳っているように、殺人術でしかなかった武術に高度な精神性を加え、「道」として昇華したものが武道であり、日本が世界に誇る精神文化、身体文化となっている現状を思えば、批判する虎次郎が間違っているとも言い切れない。

二人の未熟な虎次郎が激論を交わしたところで正しい答えなど得られるはずがないと最初からわかっていた。しかし、それでも考えなければいけないと思った。見て見ぬ振りをして先には進めない、進んではいけないと思った。

幼い頃から祖父と父に武道の精神を叩き込まれてきた。道場でも多くの先輩に剣道の理念を教わってきた。

「礼儀作法を守ること」

「一意専心に学ぶこと」

「堅忍不抜の精神を養うこと」

何千回と唱えた道場訓も所詮はわかったつもり、お座なりでしかなかったということか。有紀に指摘された通り、去年の全国大会以降は試合で勝つための練習しかしてこなかったような気さえする。

危機的な状況に立たされて、初めてわかったことが二つある。一つは、これまでの修業は精神面の成長において全く役に立っておらず、「虎」は飼い馴らされていなかったということ。もう一つは、俺にとって武道のあり方や剣の振るい方は観念的なものでしかなく、生まれついての乱暴者が効率よく人を叩きのめす技術を身につけてしまったということだ。

狂気や凶暴性も紛れもなく自分の一部。飼い馴らすため、抑え込むために武道を学ぶというのも道理。しかし、このまま何事もなかったかのように剣道を続けていいものか。けじめが必要なのではないか。けじめをつけるにはどうすればいいのか。

楽しいはずの中三の春休みは眠れない夜と鬱々とした物思いのうちに過ぎて行った。