居間の壁には、あの日、白崎海岸で描いていた海の絵が、ごく当然のように掛かってあり、寝室の壁には美子の肖像画を掛けていたが、双方ともに自ずと部屋全体の調和をとっていた。そのふたつの絵は田舎の家では絶対に見ることの出来ない貴重な宝物であり、部屋の空間を優しさで満たしてくれていると美子は当初から嬉しく思っていた。

その一方、

「ふたつの部屋のこの絵を見ていると自然に、わたしの心は和み、自ずと優しい気持ちになり、この上ない幸せ感に浸ることが出来る……」

と思いながら、博が仕事に出た後、美子は何時も時の経つのを忘れて、その絵を見ていたが、そのことは一度も口に出したことはなかった。しかし、それは、

「わたしが何も言わなくても、この思いは彼もきっと知っているだろう」

という、美子の独りよがりの自信過剰のような勝手な解釈から来るものであった。結婚以来、美子は常に、

「わたしは、博さんとの生活には何ひとつ不満はない。優しさに包まれ、満ち足りた思いで暮らしている。彼もきっと同じ思いでいるであろうということは、その表情で充分に読み取れる。その思いを何時までも持ち続けたい……」

と、願っている自分を誇りにさえ思っていることも事実であった。

ところが彼との生活は、一年足らずで終止符を打ってしまった。それは、あまりにも唐突で、誰も予想だにしない、降って湧いたとしか言いようのない残酷な災難であった。美子にとっては論外とも言うべき交通事故に、博は遭遇したのであった。事故は偶然、美子の歌会と重なった日曜日に起きた。

彼は美子を歌会の開かれる会場へ送り届けた後、その会場からは、それほど離れていない、加か太だ海岸までスケッチブックと、冷たいお茶の入った魔法瓶だけを車の助手席に乗せて出かけたまま、永遠に還らない人となったのである。

柔らかい初秋の風が清々しく感じられる、日曜日の夕方に掛かってきた電話の通報によって美子の思考回路は完全に遮断され、人生は一変したとしか言いようがなかった。

「結婚後、一年も経たないうちに夫を失ったこの事実。わたしの精神に異常を来すこの事象をどのように考えればいいのか……。どのようにすれば容認できるのか……。現実とは到底、認められない急変した日常をどのようにして乗り越えればいいのか……」

と、美子は混乱する思考の中で元通りの自分を取り戻すことは不可能だと知った。

「絶対に無理。耐えられない。それでなくとも、異常なまでに神経の過敏を自覚しているわたしに、これほどの試練がほかにあるだろうか。生まれて初めてわたしを襲った悲しみ。こんな唐突な不幸は絶対にあり得ない。どんなに考えても、わたしには理解することが出来ないし容認出来ない」

と、目の前に突きつけられた厳しい現実と、悲しみに美子の苦悩と、辛さは増すばかりであった。

【前回の記事を読む】【小説】「心の中をのぞかれているかも」と感じた彼の独りごと