当時の父の安月給で6人家族を養うのは大変だったろう。お隣の堺さん宅にも同級生がいたが、毎朝母親の運転する〈ヒルマン・ミンクス〉に乗せられ、どこか知らない学校へ通っていた。この車は確か渋いグリーンのツートーンカラーだった。

僕はあまりに弱虫な堺君を、ときどき木刀勝負で泣かせていた。自分は鞍馬天狗より強いと思い込んでいたから手加減しなかった。堺君は1年生で自転車を買ってもらっていて、とても悔しかったわけだ。

クラスメイトには、すでに1年生で自転車を自由に操る者もいたから、当然乗れる者だけの遊び仲間が誕生していく。そんな状況にイライラしていた僕は、自転車を手に入れると仲間の後を追うように乗り回った。

父はいつも家にいない。たまの日曜も家で兄弟4人が騒いでいると、「外で遊んで来い!」と叱られた。その父は、いつも深夜に酔っぱらって帰って来るとすぐにトイレに駆け込んでなかなか出てこなかったと、後に母から聞いた。いや、昔はトイレなんて言わなかったな。便所だ。女子は「ご不浄」とも言っていたな。

父は飲めないくせに、とことん接待に明け暮れた。地方から陳情にやって来る団体や個人を中央官庁や国会議員につなぐのが仕事。つまり、官官接待だよ。知っているか?

僕が通っていた池尻小学校へは、兄姉と別に一人きりでの登校。たぶん寝坊ばかりしていたんだろうな。なにせ学区を乗り越えて別の小学校へ通っていたわけだ。集団登校なんて言葉のない時代だ。

「お前! 見かけないなあ。どこの学校へ行ってるんだ?」

ランドセルを背負っての帰宅途中、知らない兄さんから声を掛けられた。このあときっと石を投げつけてくるはずだ。足早に通り過ぎるしかない。母親からも「ぜったい喧嘩してはならない」ときつく言われていた。

でも、僕は慌てて逃げる素振りなんか見せてたまるかと思った。ここを通るなと脅したいんだろう。

後でわかったが、脅してきた奴は、僕の兄で中学生の勝也と同級生だった。中学になると二つの小学校区は統一されて引揚者地区と一緒になる。僕は何も知らず、そいつに越境入学の理由(わけ)を問われても言葉を返せなかった。

あの日、世田谷池尻地区の秋祭りで、学校は早じまいだった。喜び勇んで帰るとすぐさま自転車を出してきて、「今日はどこへ行こうかな」と思案した。

僕は愛車で一日を自由に走り続けたかったから、前から温めていた計画を実行しようと少しはしゃいだ。自分の知らない遠くの町まで行ってみたかった。

「お前は調子に乗ると必ず失敗する」と、母さんから言われていたが、さてどこへ行くか。いよいよ計画実行だ。知らない遠くまで行って、無事帰る方法を見つけたんだから自信満々だった。旅支度は万全。木刀も腰に差してみたが車輪に引っ掛かりそうなのであきらめた。

当時の交通事情はいまほど車社会でなく、豆腐屋も金魚売りもリヤカーを引いていた。廃品回収のリヤカー引きもよく見かけた。昭和はそんな時代だった。

【前回の記事を読む】中学生同士で殺し合ったという…「引揚者の街」の凄惨