Ⅲ フォトグラファー

6時きっかりにカフェのエントランスを閉めると、キッチンの小さな明かりだけを残し照明を落とした。

この季節は肌の乾燥に気を配っているが、開始時間に少し遅れてしまったので、メイク直しの間もなく鏡の前でカチューシャでまとめた髪を解くと、真由子は2階のスタジオに上がる。席に着く間も惜しむように、拓史の写真講座がスタートする。

この講座で人材を見い出し、トロワはいずれカメラマン派遣業という業態にシフトしていこうとしている。有望な派遣カメラマンを育成すること。拓史はそこに勝負をかけている。

小絵も合流して10人の参加者を得るのは今夜が初めてだった。内藤が連れてきた新顔のカメラマン希望者のなかには、すでに3回目の受講者も現れた。拓史の気も引き締まる。

じゃあ始めようか。今夜はフルメンバーだな。このスタジオでは、今回で6回目か。いままで技術論ばかりだったから、たまには昔話だけど聞いてほしい。暖房の具合はいいか?

あれは僕が小学2年生の秋の出来事。あまりに嬉しかったのでよく覚えてるんだ。やっとのことで自転車を買ってもらったときの話だ。実家は6人家族で、僕は4人兄弟の三番目、次男坊。父親の転勤で名古屋から越してきて、一家は世田谷の官舎に暮らしていた。

あのころ、名古屋から東京まで鉄道で6時間50分も掛かった。官舎の暮らしでよく覚えてるのは、長い廊下の先にトイレがあって、一人で行くのがとても怖かったこと。夜はよほどの決心がいる。戻りも後ろを振り返ることができなかった。むろん、当時は水洗なんてない。便器の暗闇から「ぬーっ!」と何者かの手が出てくるかもしれないと怯えてた。

真新しい2階建ての官舎。官舎というのは官僚の家族向け住宅のことだ。その周辺は、まだ戦後のどさくさ(・・・・)の匂いは残るが静かな住宅街。道は乗用車一台通るのがギリギリ。家から少し離れた向こうには、学校の校舎よりはるかに規模の大きな満州引揚者住宅が十棟以上立ち並び、大陸を命からがら脱出し帰国した避難生活者たちを収容していた。

そこは活気があるというより混沌そのもの。旧満州からの帰国者だけでも全国で百万人いた。中国残留日本人孤児のことは知ってるかな?