【前回の記事を読む】「痕跡フェチ」のジャーナリストが、ややこしい理由

庶民目線で庶民史観というようなものを語ってみようじゃないか

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学生には、その時代の流行がある。今流行っているのは、「自分探しの旅」である。インドあたりの旅に出かけ、自分とは何かを尋ねる旅だそうである。一部の金満おバカ息子は、「探し」抜きの世界旅行を楽しむ。少しばかり年をとると

「自己なんて、1人称be動詞の上に乗っている幻想である」

ことに気付くのであるが、若いときはそうもいかない。

いずれ、自分だと思う自分に自分がへばり付いてくるような不快感も知るようになる。しかも、厄介なのは、自分という奴が、本籍・現住所まで、知らぬ間に移動していることがあるのである。学生諸君、変に「○○探し」などという思索癖がついてしまうと大変だ、自分というのは、結構クソ面倒だよと、泥もかぶり薄汚れてもいる市井の一住人としてご忠告しておきたい。

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どんなに拍手と大喝采を浴びようとも、玄関の扉を開け家に帰れば、風呂に入り、大小便や放屁をし、丸太のように眠るという、チンケな1人称の世界の住人に戻る。玄関で、ONとOFFのスイッチの切り替えをするのである。鴻鵠(こうこく)の天才から(えん)(じゃく)にして凡才の私にまで共通する生態である。考えれば人生の2/3ないし半分は、誰しもこのチンケな一般的にして共通生態に属するのである。

天は神は、こんな冷厳にしてチンケな平等性を、あまねく与えているといえば言えなくもない。このことにキチンと気付けるか否かは、人としての重大事にして重要事である。しかし、民放テレビに目をやると、局側の採用次第ではあるが、この冷厳なチンケを理解できていない政治家や芸能人やスポーツ選手やらの極楽トンボが画面に溢れ、見ることが半ば強制される。結果我々は、半独占数社の民放テレビ局が放出する、出演者の身の丈以上の自賛や、ピンボケのコメントにお付き合いさせられることになる。

巷間で多く言われるように、芸能人・スポーツ選手の発言などはうっちゃっておけば良いのだが、政治家はたとえ二世三世の世襲お馬鹿のコメントにしろ、議員報酬が血税からの支出であるからには、放置もできまい。ただ、余りに例が多いものだから、若者のテレビ離れに倣い、テレビなど見ないで「見ざる・聞かざる・言わざる」を決め込む方が楽そうである。そうだ、私たちは、凡人にして庶民の平凡な日常の「ありきたり」を精一杯愛おしもうっと。

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年齢的特性と言ってしまえばそれまでだが、大学生時代特有の「哲学的憂鬱」とも言うべき「不機嫌」が懐かしい。その根源的不機嫌があったからこそ、今の自分があるような気がする。もう一つ加えれば、「怒り」である。しかも、この根源的な不機嫌と健気(けなげ)な怒りを、私は今でも大好きである。社会にも、国にも、当然自分にも「馬鹿野郎」を未だに言うのは、この不機嫌のエネルギーから発すると言ってよい。

寛容・不寛容も不服従も庶民志向も平等観も、水源は同じであるのが面白い。小中学生、高校生が従順な時期を過ごし、そして大学時代も「不機嫌と怒り」を経験することなく、ノンベンダラリと社会人に雪崩れていくとしたら、悲劇以上に喜劇である。