【前回の記事を読む】美しいという、どうしようもない「一般性」が私は好きだ。

庶民目線で庶民史観というようなものを語ってみようじゃないか

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これは、教義の裾野の広狭の問題だろうか、教義の能動性・受動性の問題だろうか。個人的感想だが、キリスト教系は、当たり前のような積極性があり、救済行為そのものにもどこか「突き抜けている明るさ」を持っている。サラリとやってのけているのである。

日本社会にようやくボランティアが広く根付こうとしているが、この底辺の弱者救済の根はまだまだ浅い。私にできていないのに方向違いかもしれないが、若者にこれを心から期待したい。

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「もののあはれ」という世界観が、いかにして列島人の生得のものになっていったかは、そう単純なものとは思われない。列島人に生まれた以上、身についたこの感覚から逃れられないし、何かで絶頂にいても不図「もののあわれ感」に襲われるのである。

仏法の末法思想に至るまでもなく、そもそも仏法が始めから根幹に持っている「存在そのもの」「ものそのもの」の持つ哀しみへの認識や目線が、ある歴史段階でより加速・震度を上げたとしか言いようがない。「もの」が生み出す「こと」において、「ことのあはれ」に、「ことのあはれ」を演じてしまう「もの」の「あはれ」がある……というふうに、あわれの連鎖が続く。

いずれにせよ、世界が「もののあはれ+ことのあはれ」に満ちている以上、ものとことを見通す視点として、この世界観が、列島人の内部で生理化したのではないだろうか。

さてさて、この視点に立つと、物を語るという行為は、「もの騙り」であり、語り=かたり・だましとして認識されても不思議ではない。「もの」について、あわれは信じても、かたりは信じない、ということであろうか。日本人の根底にある「フィクション嫌い」「そのもの好き」も、そこに遠因がありそうである。