不幸を知った人ほど幸せになれる

「不幸を知った人ほど幸せになれる」と聞いて、あなたはその言葉を信じられますか?

ここでいう不幸とは、“辛い”“悲しい”“悔しい”“腹が立った”思いをいっぱいしてきた人のこと。そんな人ほど、じつは幸せになれるための太いルートを持っているのです。そのルートは大きく分けて3つあると思います。それを以下に示しますね。

ルート1

・「悔しさや怒りをバネにして頑張れる人用」のルート

幸せになれる根拠:他の人より、心を奮起させるための強力なエネルギーを持っているため

ルート2

・「これじゃあいけない、自分を変えなきゃ。自分を変える発想を持つことができる人用」のルート

幸せになれる根拠:ほとほと現状が嫌になって、自らを変えていこうとする強い決意が生まれやすくなるため

ルート3

・「委ねるというところに意識を向けられる人用」のルート

幸せになれる根拠:自力でやってきて、もうどうにもならないことが分かったので「もうお手上げ」他力に任せる勇気が持てるため

「本当の意味で苦しみを味わった」「このままでは決して終われない」「これは周りの問題ではなく自分の問題」と思われた人は、必ず自分を変えられます。そして必ず幸せになれます。なぜなら上の根拠を他の人以上に色濃く持ち合わせているから。

それは本気度が高いことの裏づけとなります。これは僕が“おかげマインド”の講座をする中でも、生徒さんを見ながら実感していることです。

話は変わります。鎌倉時代に親鸞というお坊さんがいました。浄土真宗という仏教宗派の開祖です。親鸞の教えを(つづ)ったものに『歎異抄(たんにしょう)※1というのがあります。

以下はその中「悪人正機」の一説です。

「善人なおもって往生を遂ぐいわんや悪人をや」

意味は「善人でさえ救われるのだから、ましてや悪人が救われないはずがない」です。ここに示した善人・悪人の定義は諸説ありますが、ここでは分かりやすく、善人=自力(自分の力)で頑張っている人、悪人=他力(“阿弥陀仏の本願力”ことですが、ここでは分かりやすく、目に見えない大きな力としておきます)に委ねられる人とします※2

悪人は、自分の力ではどうにもならないことが分かっている人なので、「他力」に委ね、自我を手放すことができる人。

自力で頑張って、思うような結果を手に入れてきた人は、そもそも委ねようという心持ちになりにくいですよね。なぜなら「頑張れば手に入る」「自分の力で不幸を回避できる」ことを信じているから。

不幸を知った人とは、「頑張ってもどうにもならないことがある」ことを、分かっている人です。つまりルート3の方です。どれだけ自力で頑張っても、頑張れば頑張るほど結果に執着してかえってしんどくなる。それを「委ねる」という形で手放すことができた時、気持ちが楽になり救われる。

つまり、委ねることで「自分が、自分が」という我欲が無くなるのです。肩の力が抜け、自然な流れに任せることができる。またその自然な流れこそ“目に見えない大きな力=他力”であることが分かり、幸せになれるという仕組みです。


※1 歎異抄:親鸞が直接書いたものでなく、弟子の唯円が親鸞から聞いたことを書き写しまとめた書物

※2 浄土真宗は「他力本願」を教条としているので、基本「南無阿弥陀仏」を信心・帰依するだけで、誰でも救われるという教えです