二.ふ化場実習

ニシベツ実業高校の南側には、実習用の試験草地が広がっている。肥料の量を変えたり、牧草の種類や品種を変えたり、組み合わせたりしている三m四方の区画が一○○区画以上もある。それぞれの区画には、四隅に三〇㎝程度の白い杭が立てられ、白い看板が立っている。牧草は萌芽期に入っていて、地際の生長点が活動を開始している。枯れてしまった昨年の枯れ葉の間から、小さな新葉がシャープな根釧原野の光に照らされて朝露がキラキラと輝く。一つ一つの芽が今、力いっぱい伸びようとしていた。

この試験草地の一角に、気象観測用の露場(ろじょう)、と呼ばれる気象観測機器を設置した芝生がある。ここで、酪農科二年の山川徹は、科学部の活動の一環として気象観測を担当している。今日は晴れ、層積雲が空に浮かんでいる。弱い南寄りの風が吹いているが、まだ少し風は冷たい。しかし、光は冬よりも強くシャープさを増している。根釧原野の光はシャープだ。年に一度かそこら、札幌に行く機会もあるが、札幌の光はシャープさがなく、ビルとビルの間からのぞく太陽はくぐもっていてよく見えない。はっきり言えば濁った光だ。

自分には、このシャープな光が合っている。山川徹はつくづくそう思う。野帳に天候と雲量、雲の種類を記録すると、観測棟のハシゴを上っていく。観測棟のてっぺんには、今どき珍しいロビンソン風速計が設置してある。歯車に数値が書き込まれていて、一日にトータルでどれぐらいの風が吹いたか記録される仕組みになっている。これも手早く野帳に書き留めると、ハシゴを降りて積雪深計と雨量計を確認する。根雪はなくなっているし、昨日から今朝にかけては雨も降っていない。一応念のため、土壌凍結深度計もチェックする。もうシバレる季節ではないから、土壌凍結もすっかり抜けている。

山川徹は、百葉箱(ひゃくようばこ)の扉を開けると、まず自動で気温と黒球(こっきゅう)温度、地温、それに湿度を記録するデータロガーが正常に作動しているかどうかを確認した。データロガーは一週間に一度データをタブレットにダウンロードするが、今日はその日ではない。棒状の最高温度計をチェックして、最高温度を野帳に記録する。最高温度計を百葉箱から取り出して、周りに何もないことを確かめてから、二,三回振ると、現在温度に戻る。同じように最低温度計をチェックする。右を下にして傾けるとアルコールの中の小さな針金が現在温度に戻る。山川徹は、最高温度計と最低温度計を百葉箱にセットしなおすと、百葉箱の扉を閉めた。

山川が百葉箱の前で気象観測をしているとき、中渡千尋が愛用のカブにまたがってニシベツ実業高校の駐輪場に入ってきた。ヘルメットを脱いで手早くハンドルにかけ、カバンをつかむと校舎玄関に向かって歩き出した。ふと左方向を眺めると、酪農科二年の男子生徒が生真面目な様子で気象観測をしているのがちらりと見えた。毎朝の光景だ。

(確か、科学部の活動だったかな。家が酪農家でもないのに、よく毎朝できるものね)

そう思いながら、しっかりとした足取りで千尋は校舎玄関へ向かう。カバンを左手に持って歩きながら、千尋は記憶をよみがえらせる。入学して間もなくの放課後、夕日が差し込んだ人気のほとんどない玄関ホールのプレートを、じっと見つめる男子生徒の姿があった。遠くから気づかれないように、そっと様子を眺めながら、千尋は心の中でつぶやいた。