わたしの家には本もたくさんありました。これもすべて父の蔵書でした。わたしはそのなかから北原白秋や与謝野晶子、芥川に魅かれていきました。

わたしは晶子の『君死にたまふことなかれ』や『清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢う人みな美しき』などの歌に感動し、芥川の『トロッコ』という作品では、夕暮れの線路を独り帰らなければならない少年の姿に、幸福な家庭にいたわたしでしたが、どこかで将来闇のなかを独り歩かなければならない不安を感じていたのでした。

わたしは少女時代、あいている時間は自由に父の書棚から本を出し読み(ふけ)ることができたのです。わたしは英語も好きでした。じつはこれも父の影響かと思います。父は、英語はもちろんのこと、フランス語も秘かに習得していたようです。

父はドビュッシーが『月の光』を作曲するために着想をえたとされるヴェルレーヌの詩を、フランス語と日本語で朗読してくれたことがありました。わたしは少女ながら物悲しくも美しいその調べにうっとりしたことを憶えています。わたしはいつか外国に行くことを夢見て一生懸命勉強しました。わたしは幸せな少女時代を過ごしていたのです。

母はふくという名でした。その名のようにほがらかな性格でした。東京高円寺の商店の娘として育ったのでした。父と母は見合い結婚だったと思います。

インテリの父と下町娘が二人で歩いているとアンバランスにも見えましたが、母は、父を愛し、家族に大きな愛情を注ぎ尽くしていました。父は家庭に戻ると自分の好きなことをしていましたので、家庭を束ねていたのはほがらかな母でした。母は死の日のあの時刻直前まで、幸福であったのだとわたしは信じています。

わたしには六歳年の離れた弟がいました。名を(けん)といいました。弟は生まれながらに少し知的な障害がありました。いまでいうダウン症でした。

弟は障害があったがゆえにでしょうか、天使のようにかわいらしい少年でした。この弟を父も母もわたしも強く愛していました。姉であるわたしは将来父と母が先にこの世を去っても健をなんとしてでも守っていくと思っていました。この三人が、天から与えられた、わたしの最初の家族でした。

そしてわたしが十五歳のとき、父の長崎への転勤が決まりました。昭和十七年の十月でした。すでに太平洋戦争に突入し十ヶ月が経っていました。父は国の任務を帯び長崎県庁に勤めることになったのです。数年間の転勤の予定でしたが、家族三人も大森の家を空き家にして東京を離れ、父とともに長崎に行くことになりました。

このときから、わたしたち家族全員が戦争という時代のどうしようもない大渦のなかに巻き込まれていったのです。いま思うと、かりに東京にいたとしても戦争の渦に巻き込まれていたことに全くちがいはありません。ですが、その渦が家族三人までも奪ってしまうものであったかは、わたしにはわかりません。

わたしには昭和二十年に長崎で家族全員を失うという事実だけが残されたのです。わたしたち家族は、アウシュビィッツの大悲劇とともに、人類最悪の罪といわれる運命の下に、何も知らず向かって行ったのです」

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