第一章

和子と彦坂の面会は当初、お互いがどのような話をしたらいいのかと思われた。

そのため後見契約のわかりにくい点を和子があらためて彦坂に確認したり、かりに和子がどこかの路上で倒れた場合、救急車で搬送された病院が彦坂へ連絡する方法や、入院先に彦坂が持っていかなければならないものの置き場所などを確認したりしていた。しかし定期に面会を重ねることで、新しい人間関係といったものが生じていった。

それは家族ではなく、家族類似の関係でもなく、友人関係でもない、あくまでも後見契約により生じた見守られる者と見守る者との関係だった。国が頼れる家族や親族のいない者を支える手法として「契約による後見」制度を導入したことで生まれた、これまでの社会常識の円周からはみだしたなんとも奇妙な関係であった。

和子と彦坂はこの国における新たな人間関係のいちばん最初期の二人であったと記録されていい。いちど和子が入院し、病状も落ちついた日に病室に訪れた彦坂を見て、六人部屋に入っていた和子は同部屋の患者たちに「この人がわたしの後見人さんよ!」とうれしそうに紹介したことがあった。

後見契約によって人為的につくりだされた間柄とはいえ、病床にある天涯孤独の人のもとに後見人が面会に現われたのである。そのとき孤独の人は涙を流すほど喜ぶことを彦坂は知った。

司法書士の彦坂にとって和子は後見分野の仕事の最初の一人であった。このことが高齢者・障害者の権利擁護の分野に入っていく契機となった。時代の要請と彦坂のやる気によって、少しずつ彼への後見人就任依頼は増えていった。しかし和子との後見契約以外はすべて家庭裁判所から選任される後見であった。すなわち、すでに重度の認知症や精神障害に陥ってしまった者の成年後見人等に、家庭裁判所の審判によって就任することであった。

後見業務は被後見人の氏名、生年月日と住所電話番号を手帳の第一頁ページに書き留めることではじまる。次に手帳の奥の頁に被後見人の既往歴を書き記しておく。少なくとも彦坂の場合そうである。

なぜかというと、様々な手続きの際、氏名、生年月日、住所等を相手から求められるからである。また病歴を記録しておくのは、被後見人に緊急入院の事態が発生した場合、医師からそれを聞かれることに備えるためである。そして被後見人の生年月日を「記憶」することも重要である。それを記憶することでその人がまったくの他人である位置から、身近な位置にまで近づいてくるからである。

彦坂にとって白鳥和子の生年月日は覚えやすい一人であった。通常、人の生年月日は特別の愛情でもないかぎり無意味な数字のつらなりにすぎず、覚えられるものではない。しかし和子の生年月日である昭和二年三月九日という日付は、白鳥和子の清楚な印象とともに、数字を記憶するためのゴロ合わせの必要もなく、そのまま記憶することができたのだった。