また、当該保険会社は、終戦後すぐにその本社(お堀端の日比谷にある)がGHQに接収されたのだが、そこに最高司令官のダグラス・マッカーサーの執務室があった。

全ての懸案に即断即決だった彼の執務室内には、書類などは一切なく、サインをするための一本のペンだけが置かれていた。ただ、その壁には、サミュエル・ウルマンが書いた『青春』という詩が書かれた額が掛けられていた。

その詩の冒頭は、『青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の持ち方を言う』。私もこの詩が大好きだった。

でも、どの日本語訳も嫌いだった(気合いばかりが入り過ぎ)ので、原文で暗記し、息子が小学生に上がる頃に、息子と元妻の前で何度か聞かせてあげたことがあった。

息子は何となく聞いており、元妻は「そんなくだらないことを覚えるくらいなら、もっと大事なことを覚えたらどうなの?」と言っていた。もっと大事なものとは何なのか、私はいまだに分からない。

余談だが、ウルマンに本当に詩人としての実力があったとは思えないし、十万人もの部下(兵士)を置き去りにして、自分だけ本国に帰ってしまったマッカーサーは、卑怯で最低の司令官だとも思う。

でも、確かにこの詩そのものは素晴らしいし、マッカーサーが(結果的に)広めてくれたからこそ、私を含め多くの人がこの詩に出会えた訳だし……。こじつけかもしれないが、私は『青春』というものについて、何か因縁めいたものを感じている。

私はマッカーサーが指揮を執っていた、その同じビルで長年働いていた。そのマッカーサーが「アイ・シャル・リターン」と言って撤退したのは、フィリピン。フィリピンは、大東亜戦争における父の最初の戦地。父は酔うといつも、大きくなったらフィリピンに行って来いと言っていた。そのフィリピンで私は『青春』を取り戻した。

私が今こうしてこの本を書いていることに運命的なものを感じると言ったら、大袈裟だろうか?

前述のように、青春に不可欠なもの、それは異性の存在である。異性が登場しない青春など存在しないと思う。もちろん同性愛者は除くが。

野球に打ち込む高校球児とて例外ではない。自分が大きな舞台で活躍する姿を、恋人や片思いで恋い焦がれている少女がどこかで見ていてくれるかもしれない……。こんな感情なしに、必死で頑張れるだろうか?

純粋に野球が好きという感情、同性の仲間との友情なども大きなモチベーションになっていることは確かである。でも、いいところを見せたい、カッコつけたい、というのが必ず本音としてあると思う。