B子が出ていってから、確かに仕事は頑張りました。頑張った甲斐もあって、なんと翌年ミシュランガイドに掲載され、ビブグルマンという賞まで頂きました。利益も従業員も増え、銀行からの融資を受けて二店舗目・三店舗目と次々に出店していきました。

店舗数と売り上げの増加に合わせるように、飲酒量はさらに爆発的に増えていきました。運転資金として借りた沢山のお金も良くなかったのだと思います。ストレス発散の為にと朝から晩まで大量の酒を飲み、摂取したアルコールによりさらに身体的ストレスと精神的ストレスが溜まっていきました。

自分が酒を飲む為に教育途中の人材でも放ったらかしで店を任せてしまったり、そのくせまたネチネチと口を挟み、時には怒鳴りつけ、責任は全て他人になすりつけて、また自分は好き勝手に飲みに行く始末です。

思い返せば思い返すほど本当に酷い話です。最初の店と同じ失敗を繰り返していました。アルコールで麻痺し、いや故意に麻痺をさせていたのだと思いますが、どんどん深い闇に入り込んでいくことにも気づけないまま、気づこうとしないまま、酒だけが救いだと信じ込もうとしている哀れな子羊でした。

この頃から心療クリニックに通うようになりました。四一歳でした。「私はアルコール依存症に違いない」。そんなことは、ずっとわかっていましたが「もし飲酒をやめられるなら立ち直るチャンスがあるかもしれない」と祈るような気持ちでもありました。

しかし所詮は他力本願、「誰かが救ってくれるだろう」という考えが強く、睡眠薬や抗酒薬・断酒補助薬などを服用しながら、勝手に治るのを待つという「一応やってみようか」という程度の考えでした。

初診の際「すぐにでも専門病院に入院した方が良い」と勧められましたが、当然仕事もあり「そんなことできるはずがない」とお断りしてしまいました。

毎日家に帰っても誰もいないので、外での飲酒や散財はとことん酷くなりました。仕事はそっちのけで朝から深夜まで飲み続けるようになり、また次の日も朝起きたらすぐに缶ビールを開ける、といった具合にとんでもない連続飲酒、三六五日のチェーン飲酒が始まっていました。外に出て飲み屋が開いてない時間はファミリーレストランで飲み、コンビニで紙パックの焼酎を買い、ストローで吸い込みながら次の店に移動したりしました。