第一章

戦争の世紀であった二十世紀の終わりの年、二〇〇〇年も八月になった。

五十五年前の広島・長崎に原爆が投下された日と、お盆休みと終戦の日も、滞りなく過ぎていった。

八月下旬のある平日の午後三時、白鳥和子と司法書士彦坂一郎は東京大森の公証役場において、公正証書で後見契約を結んだ。公正証書で契約しないと法律上無効であるため、二人は公証役場に赴くことになったのである。

事前に契約書の文言を彦坂と協議していた裁判官上がりの齢七十ほどに見える温顔の公証人が、二人の契約意思を確認するために、二人をまえにし、完成した契約書全文を一字一句読み上げたのだった。

白鳥和子は、その日遺言書と、不治の病に陥った際の延命治療を拒否する「尊厳死宣言公正証書」、死後の葬送の手順を示した「死後事務委任契約書」も作成した。白鳥和子はいつか来る自分の死に、文書で、そなえたのである。

そして、後見契約書や遺言書等に署名押印し終え、公証人がその場を退席した、そのときであった。和子が彦坂を見つめ言った。

「わたしの(ひつぎ)には、この封筒に入っている二枚の写真を入れてください。葬儀も、読経(どきょう)も、花束も、何も、いりません」

白鳥和子は、彦坂に大切に所持していた茶色の封筒を示したのだった。そのあとで、「この封筒のなかにある写真は、納棺の際に取り出し、わたしの胸に置いてください」と、ことばを付け加えたのだった。

白鳥和子が天に召されるときより二十年もまえの、二十世紀の終わりの年の、おびただしい晩夏の光に溢れていた、八月下旬のある金曜日、午後三時三十分であった。

このときから、市井の人白鳥和子と、同じく市井の人彦坂一郎の、和子の死に至るまでの交際が、公証人が署名押印した数葉の契約書を結ぶことではじまった。それまでの人生で全く縁のなかった二人が、後見契約という高齢化社会を支える一手法として登場した奇妙な契約によって、結びつけられたのである。

白鳥和子は、七十三歳、彦坂一郎はまだ若く、三十八歳であった。