製図室の仲間も外国への夫々の思いを抱いていたはずで、何とか日本脱出の方策はないものかと相談していた。しかし来年の卒業までにはもう少しの時間しか残されていなかった。アルバイト(当時は家庭教師がほとんどだった)でお金で貯めるには時間がかかりそうであった。

そこで、渡航費用さえあれば何とかなるだろうということで、仲間の何人かは「建築学生海外視察団」と称して、建設関係の企業に賛助金を募ろうということになった。

当時就職は売り手市場で、我々のところには色々な会社から就職の勧誘が盛んであった。そこで我々の中の何人かが、帰ったらその会社に入ることを約してお金を出してもらったり、建築会社の先輩役員に直談判して賛助金を出してもらったりした。

どうにか渡航する片道費用は集まったので、春の卒業を期に仲間の5名(貝塚、高橋、原、山田、山下)がアメリカに行くことになった。メンバーは皆、高校や大学でラグビーやアメリカンフットボール、テニスなど運動をやっていた、体力に自信のある面々だった。

結局5名の内3名は卒業資格を取ってからだったが、2名は留年の形で1965年の4月に先発隊が船でハワイに向けて出発し、残りも直ぐそれに続いた。その計画と平行して、私は他の仲間と外国行きの別の手段を模索していた。

それはイアエステ(IAESTE)を利用して渡航する方法だった。イアエステとはThe International Association for the Exchange of Students forTechnical Experience の略で、ユネスコの関連組織として欧米を中心として理工系の学生を、夫々の国の企業である期間交換実習させようとするものであった。

その存在はまだ日本ではほとんど知られておらず日本支部もなかったが、土木学科の有志がそれを立ち上げようとしていた。土木学科に太田、池田という2人の傑物がいて彼等を中心として準備が進められていた。土木学科と建築学科は同じ棟内にあり、仲間の岡部が2人と親しかったので、寺沢と私も時間があれば土木学科のフロアーの片隅に作った準備室に出入りしていた。

イアエステ本部に日本支部として承認してもらうのにはそれなりの体制を形作る必要があった。前述の2人を中心に他校に声を掛けたり、産業団体に説得に回ったり、学校の教授を担ぎ出したりで結構忙しかった。我々3人はたいした戦力にならなかったが、それでも1964年のイアエステの総会で日本支部はそのメンバーに登録された。

何月だったかしら、オリンピックは10月だったからその前だった気がする。