Ⅰ ヨーロッパ

(一)君へ

君はもう外国を見たことがありますか。まだだ、というかな、もう当然だ、というかもしれないね。でも今から半世紀以上前に若者だった我々にとっては、外国は今では想像できないような遠い存在だったのだ。

私は1965年の4月に大学の建築科を卒業するはずだったが、卒業せずに4年生に在籍のまま1年半あまりヨーロッパに行っていた。それは留学などというものではなく、よくいって修業、実態は働きながらの漂泊・滞留だった。そして帰ってきて大学を卒業したのは同期の友人達より2年遅れになった。

その時のことを書いておこうと思ったことは何度かあったのだが、当時の資料というものがほとんど残っていない。それは私のものぐさのせいで、その時のことを書き留めておくことがなかった。家に書き送った手紙類もあるはずなのだが、今やどこにいったのか定かではなくなってしまった。

家捜ししてみると、かろうじて当時の写真(当時はカラーフィルムの焼き付けは高かったからほとんどスライド用だ)が少しと、様々な街の地図を見つけることができた。もう半世紀以上が過ぎているので、記憶は曖昧で時系列も定かではなくなっている。

その様な状態で当時のことを書くとすると、どうしても自己満足の思い出話になってしまいそうで、あまり気が進まなかった。しかし、その時の様々な体験、多くの人々との得がたい出会いが、その後の私の生き方に影響を与えたことは確かなのだから、ボケないうちにできる範囲のことを書いておこうと思い立った。

そしてそれを書こうと思い立ったのには、自分の過去を振り返るということばかりではなく、別の思いもあった。それは、そこで体験した心の遍歴とでも呼べばよいようなものは、今の若い君の心情とあまり変わらないのではないかと思ったからだ。

私の体験したものは、決して君に特別な話題を提供するものではない。まして、その後の私の成功物語に続くものでもないのは確かだ。ただ半世紀以上前の1人の若者の青春の日々が、今の君の心にある共感の小さなさざ波を呼び起こすことがあるなら、私にとってこれほどうれしいことはない。先ずは始めることにしよう。脱線路線になるかもしれない。