金色の朝

初秋、翌朝は秋晴れだった。南に向いている障子を通して拡がった朝の光が、勝手の隣の座敷を金の世界にした。金の朝だった。

朝飯は、大倉屋の深川の寮が自慢にしている蛤の漁師料理である。まだ深川が漁師町だった頃の味である。

深川は正徳三年(1713年)、代官支配から町奉行支配に変わった。江戸御府内になったのである。日本橋や神田から比べ、百年遅れで江戸の町になった。江戸に近い、その地の利を生かして、深川には紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門たちがこぞって別荘を営んだ。

大倉屋も初代の喜八が別荘を設けた。深川永代寺門前馬場道南側、その裏河岸、相互に隣接して屋敷が四軒あった。

大倉屋喜八は、「別荘の役割はナ、火が出て、京橋の本宅がなくなる時や、本宅を直したりする際の、一時の、引っ越し場所さ。また本宅に収納できない道具や書類、家財の置き場所で、まあお大名の下屋敷と同じサ」と言っていた。

しかし本当の目的は、接待にあった。「深川振舞」と呼ばれ、ここを使って商売をうまく進めるのである。

深川は、水と緑が多い自然の美しい所で、船を使えば江戸の中心部や、大名屋敷が多い芝の辺りからも、それほど遠くない、格好の場所である。

また、大名や旗本の気休め、保養にも適していた。何しろ、江戸の街中では風呂がある家は殆どなかったが、深川の別荘は違った。

「お大名、お役人、お旗本、皆様はここに来ることを、楽しみにしていますよ」と、喜八は自慢した。

「吉原は遠いし、高い、まずい。あんな所は誰も行きませんよ」

大倉屋喜八は新しいやり方に満足していた。時代は変わりつつあった。そんなことを良く知って、大久保巨川のように、客の方から深川振舞を強請(ねだ)る人もいた。

「うまい!」

松七郎は宗五郎の背中に声をかけた。

「そうでんしょう。そう仰ると思ってましたよ。若、深川の蛤は、佃の沖でとれるンですよ、江戸の蛤はふっくらとしてましょう」

元漁師の宗五郎が得意げに勝手から答えた。

「左様で?」

「ええ。小さい物は吸い物に、中くらいは焼き物に、大きな物は煮物、煮蛤にします。どれをとってもうまいンですヨ」

宗五郎は頷いて、

「ですがね、秋の末から冬になると身が小さくなりますから、これからが一番ですよ」

宗五郎が手を拭きながら松七郎の横に座った。

「宗五郎さんの朝飯が一番だ、誰もがそう仰います」

と松七郎が言うと、いつも、嬉しそうに説明してくれる。

「先ず、剥き身にしましょ。賽子(さいころ)くらいに切りましてな、煮るんで。醤油、味噌、砂糖を入れ、また煮るんです。そこへ卵を落とす、それだけで御座います」

宗五郎は、一息ついて、「それを、白いご飯にかけて、蛤のお吸い物が付きます」と松七郎の目を嬉しそうに見る。

「汁も蛤で?」

松七郎は聞いた。

「左様ですとも。蛤一筋ってところでござんすネ」

嬉しそうに、

「それじゃ、宗五郎さんも蛤の職人ですね」

「そう言って頂くと、冥利に尽きます。喜んで頂けりゃ」

皆が朝の食事をしている離れに入った松七郎は、「あれ、松五郎様は?」と声を出した。

松五郎の膳の横に大倉屋の袢纏が几帳面に畳まれていた。

「そう帰りました」

鈴木春信は松七郎の顔を見ながら、「『この有難い御代に朝寝坊なんぞしちゃァいられネー』と、朝飯だけは抜かりなく、蛤の丼二杯頂いて、さっさと帰りました。若旦那に宜しくとのことで」と春信は酒を飲みながら言った。

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