「朱里。お願いだから分かってよ。あなたがママの跡を継いで、この神崎流を引き立てていく。それがママの夢なんだから」

後継者。跡取り。二つの言葉を呪文のように繰り返す母親の顔は、築き上げた家業という魔物に乗り移られたかのように吊り上がっている。

じゃあ、父親の会社はどうするん。ふと心に浮かんだが、華屋を継ぐよりもっとどうでもいいことだ。

「なんべんも言うてるけど、私は華屋なんて絶対に無理やから。ママには」

いつもなら絶対に“ママ”なんて呼ばないのに、ここはわざわざ戦意を煽る必要はないだろう。

「ママのこと崇拝してるお弟子さんが、いっぱい居てるやん。何もできない私が跡を取ったら、その人らが私に付いてきてくれるとは思われへん。せっかく築き上げた神崎流を、潰してしまう」

私には人望もなければ、人の上に立つなんていう器量もない。自信もなければ、知恵もない。こんな私が跡を継いだら、あっという間に立ち行かなくなって会社は倒れてしまうだろう。なんで母親には、何年か後に起きるだろう神崎家の惨めな行く末が見えないのだろう。

「それに映美が居るやない。映美は私よりずっとずっと適任やと思う。パパの会社だって、映美ならちゃんと繁盛さしていけるって」

ねっ。そう言って映美を見ると、妹は小さく切り分けた肉を口に運ぶところだった。

「あのね。お姉ちゃんが親に将来を決められるのが耐えられへんように、わたしも同じなんよ。わたしにはわたしでしたいことも、夢もあるんやから」

映美――。母親は言った切り、食べた物が喉に詰まったように黙りこくってしまった。

レースのカーテン越しに、庭に植え込んだ常夜灯の明かりがぼんやり見えている。この明かりのように、大学に入ってからの映美は益々理解しがたくなっている。もともと映美に対してそんなに関心があるわけではなかったが、こうして家に居る時間が多くなるとつい気に留めてしまう。

退屈は、目線をあらぬ方向へ持っていってしまうものらしい。それは時間を持て余している自分を、認めたくないからだろうか。映美は学歴を鼻にかけて私を見下したり相手にすらしないなんていう、そんな素振りは全く見せなかった。我が道を行くといった感じで、人を寄せ付けないオーラで包まれているようだ。

「映美の話はまたゆっくり聞くとして、いったい朱里は何がしたいの」

卓球。咄嗟に答えた。

母親と妹が顔を見合わせる。はあぁ? 

まだ食べ切っていなかったが立ち上がった。ダイニングから出ようとした私の背中に母親の、待ちなさい、と叫ぶ声が追いかけてくる。振り返らずドアを閉めた。

卓球。苦し紛れに、そう答えたわけやない。バルコニーに出て夜風に当たっていると、あの世界で生きたいと本気で思った。

耳がぎりに隠れるほどに切った髪が、さわさわと風に揺れる。せめてもの抵抗に、背中まであった髪をショートカットにしてきたとき、母親は鏡に写ったお化けを見たような顔をした。髪を切ったくらいで母親との血の繋がりが薄れるわけではないが、断髪という行為で示したかった。

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