【前回の記事を読む】日本最古の地誌『風土記』にも記述されていた!? 国造にまつわる「甕神信仰」の多氏を追う

1.多氏は何ものか

この(継体天皇の:筆者注)御世に、筑紫つくしの君石井いはゐ、天皇のみことに從はずして、まねゐや無かりき。故、物部荒甲もののべのあらかひ大連おほむらじ、大伴の金村かなむらの連二人を遣はして、石井いはゐを殺したまひき。「磐井の乱(527〜528年)」として有名なこの戦いは、子がなかった武烈天皇の崩御後、越前の継体が、正式な皇位継承者となった直後に勃発したものである。

古代共和制のもとにあったヤマトでは、天皇を選ぶのは大和盆地の大豪族たちであった。彼らの選択は、最終的には継体支持であった。候補者の継体は、応神天皇の五世孫という皇位継承資格であった。

一方の磐井は、竺紫君=多氏(神武天皇次男)の裔孫であったと思われる。大豪族のうち、大伴氏、物部氏そして許勢氏が継体を支持した。しかし磐井の支持者は、『記紀』に記録がない。それまでの天皇家との閨閥上では、葛城氏が継体即位に反対していたのであろうが、磐井支持であったかどうかは分からない。

継体の大和入部は、彼の「二十年」である。皇位継承を承諾してから19年もの長いあいだ、政権中枢の大和に入らなかったのには、理由があった。つまり継体新天皇に難を示す、葛城氏などの意向を反映したものである。

大和の「磐余の玉穂の宮に都」するまで、継体の暫定的な宮処は淀川や木津川の近くにあった。瀬戸内海および琵琶湖に通じる淀川水運を利用できる上に、大和から攻められる可能性を考慮して、リスク管理を実施していたのである。

奈良盆地北端にある平城山を盾にして防御態勢をとる一方で、緊急事態が発生すれば、一気に大和へなだれ込む気構えを示して、反対豪族たちの気勢を削ごうとしたのである。多氏に繋がる磐井は、神武の栄光をも背にして、次代後継者の資格は十分であった。だから継体の大和入部の翌年(継体二十一年)、磐井は確信をもって「乱」を起こしたのである。

「オレにも皇位継承の資格がある」ことを宣言するに等しい反乱であった。『日本書紀』継体紀に残る、当時の磐井の心境である。