とは言っても、五十九点以下が多数いて、試験問題が適切ではないのか、教え方にも問題があるのかと言われると困るし、また、不可の評価をすれば、学生からも恨まれる可能性があるため、教える側は成績評価に対しては難しい判断を強いられている。

そこで国田は成績下位の七人に対して、前期試験終了後の十一月に個人面接をした。

「このままの成績では留年するのは確実なので、よく勉強をしてほしい。再試験を受けることのないようにしなければ留年しますよ。家に帰ったらこのようなことを両親に言えないでしょう。だったら、もっと勉強をしなさい。頑張りなさい。もし、留年が決定したら、保護者に学校に来てもらって直接会って留年を告げることになっているので、このことをよく心得て勉強して下さいよ」

国田は七人の学生に、そう一方的に告げて叱咤激励したのであった。その後に、「何か仕事で悩むことはありませんか、勉強できない環境ではありませんか、所属している施設に不満はありませんか、院長の性格はどうですか、プライベートな問題はないですか」などと問いかけて、七人の学生から事細かに情報収集をしたのである。

このような情報を得ることによって、国田は開業医師会員の学生に対する現状を把握し、今後の諸問題の解決に役立てようとしていたのである。

昭和六十四年度(平成元年度)の入学試験が平成元年二月に始まった。昭和六十四年は僅か一週間であり、一月八日からは平成元年となったが、入試問題は昭和六十四年度入試と記載されていた。元号がいつ改正されるか予測できないので、やむを得なかったのであろう。

入学試験は第四期生に対するものであるが、まだ新設校という雰囲気は受験生にとって否めず、定員四十人に対して第四期生の応募者は六十三人しかいなかった。第一期生は五十八人、第二期生は九十六人、第三期生は八十四人であったことから考えると、今後は受験生が減少するという一抹の不安が学校関係者の頭をよぎった。国内の景気が良くなると、看護師希望者が少なくなると言われており、その通りかもしれない。