国田克美(くにだかつみ)という女

昭和五十九年に尾因(びいん)()医師会館(四階建)が建設されることになった。

同時に会館内に三年課程(定時制)の看護専門学校を併設して、一階の三分の一の面積に医師会事務室、会議室、応接室などがある。残り三分の二は看護専門学校玄関、学校長室、第一実習室となっている。二階は二つの教室と事務室、講師室、図書室、学生相談室、第二実習室、三階は二つの教室と講堂、四階は映写室と倉庫となり大部分を看護専門学校が占有している。

以上のように医師会館内に看護専門学校があるという状態とは真逆で建物の占有率から判断すれば、看護専門学校内に医師会館事務室などがあると言っても過言ではない。したがって、表向きの目的は医師会館建設であったが、実質的には看護専門学校の建設が主目的であった。

昭和六十一年度開校の尾因市医師会立看護専門学校は定時制新設校のため、四年後に初めて看護師(当時の呼称は看護婦)国家試験合格率の結果が判明するとあって、学生たちには新設学校で看護師国家試験に果たして何%が合格できるのか疑心暗鬼が拡散し、不安心理を増幅した。

看護師養成所として厚生労働大臣による正式な指定は昭和六十一年二月上旬であった。昭和六十年八月には開校見込み校として認められ、昭和六十一年には入学試験を予定することができることになった。昭和六十一年二月の入学試験では定員四十人に対して受験生は僅か五十八人であった。

このような状況になることはいずれも新設校の宿命であり、いたしかたない。五十人を合格者として発表したので、実質的競争率は一・一六倍であった。合格者五十人のうち四十五人が入学手続きをしたが、さらに三人の辞退者があり、四月の入学式に参列したのは四十二人であった。定員割れにならなかったため、関係者一同は安堵の胸をなで下ろしたのであった。

尾因市医師会立看護専門学校(昭和六十一年開校)は定時制三年課程であるため、全日制と異なり四年間の教育課程の授業は主に午後で、実習は全日で三年生は週二日、四年生は週三日となっている。したがって、医師会立であるためほとんどの学生は医療機関に所属し、看護助手として無床診療所は午前中のみで、病院や有床診療所は夜勤もあり、働きながら学び、全課程を修了すれば四年後には看護師国家試験受験資格が得られるのである。

この種の定時制看護専門学校は全国的に非常に少なく、昭和六十一年においては全国に六校しかなかった。この学校の教育理念は学生便覧には次のように記載されている。

教育理念とは、地域社会及び保健・医療・福祉をめぐる環境の変化に応じて、保健・医療・福祉の向上に貢献できる看護師の育成である。