数日の滞在で鎌倉の実態が見えてきた。

義経の名はほとんど聞かない。一の谷合戦勝利の功者は、梶原景時、土肥実平、畠山重忠という声は耳にする。義経には悪口が多いのだ。その先鋒は景時であった。

「御曹司なれど、あの子供じみた感情、人の意見を無視する思い上がり、増上慢には閉口した。自分の立場が分かっておらぬ。我々に主人面をし、高飛車に物を言う」

また、

「武衛(頼朝が兵衛佐であったため、こう呼ばれるようになった)が指名された軍監であるわしに相談することなく軍議を興し、一方的にことを決める。我々はあの狂ったような下知に服しかね、配置換えを望んだ。戦場のどこにいたのかわしには見えなかった」

先の義仲戦と同様に、景時は自分の手柄の程を自慢するのであった。頼朝は事実を把握していたが表面ではこれらに同調し、

「さもありなん」

と、頷いてみせた。弁慶が頼朝の側近に近付いて拝謁を願い出ると、

「義経の郎党如きがわれに直接会いたいと言うか。それこそ義経の増上慢の現れである。用向きがあるなら侍所へ行けと伝えよ」

侍所別当は和田義盛である。義仲戦では範頼軍の軍監を務めた。義経が範頼を差し置いて堀川館に入ったことを快く思っていない。

「会えぬ。御曹司自ら会いたいというなら会うが、郎党風情に別当が会えるか。誰ぞ用件を聞いてやれ」

「御用人にしかお会いできないのであれば。御免つかまつる」

弁慶は義経の鎌倉における立場を痛感した。これらをどのように報告するか悩むところであった。単純で一途な義経に納得させられるだろうか。

その話を耳にした広元は、義経の下には主人同様世間や処世術を知らぬ者ばかりだ、と同情したくなった。広元や義盛の側近に近付き賄賂を贈って手づるを作っておく程度の知恵もないか。

世の常に明るいと聞いていた弁慶がこれでは、この先あの主従は世渡りに苦しむであろうと思う一方、義経をどう扱うか苦労することはなさそうだとほくそ笑んだ。侍所は御家人を統制しているが、義経はそのことも知らず配下の名簿さえ届けていなかった。