一の谷

六月になって、義経は六位相当の左衛門小尉(しょうじょう)に任ぜられ検非違使を命ぜられた。左衛門小尉は宮廷守護の長官、検非違使は都の警察権を持つ。つまり、地方官ではなく中央の官職を命じられたのである。

義経は、何度も鎌倉に拝命の可否を窺ったが悉く黙殺された。頼朝の存念が分からない。頼朝は除目を出す側にも受ける側にも無断で動くことを禁じている。院ではそれが気に入らない。除目は宮廷・院の専断事項であり、外部の者が口を出せることではないのだ。共に戦った自分以外の者が除目を受けていく中で、戦功に自負を持っている義経はそれが目的ではなかったが欲しくなった。

兄弟の亀裂を大きくすれば思惑通りに進むし、世間は義経に同情している。そこで、法皇は鎌倉からの返答がないまま、八月提示通りに任官させた。

更に追い打ちをかけて九月十八日には従五位下に昇格させ、大夫尉(たゆうのじょう)に進めた。検非違使の大夫尉は『判官(ほうがん)』と世間では通称しているため、これ以降九郎判官義経と呼ばれるようになった。また、従五位下は昇殿が許されるいわゆる『殿上人』であり、宮廷人になったことになる。

もちろん頼朝は激怒したが、表立っては法皇の専断を糾弾しなかった。(触れていなかったが、有綱は既に従五位下であり、官位では同格だった)

「九郎は、何もわかっておらぬ。鎌倉勢は義経に忠であったのではない、わしに忠ならんとして戦った。そして勝利を得たのだ。義経はわしの代官にすぎない。高所から見ろと言いたい。わしがこの鎌倉で武家支配の国を作ろうとしていることで、どれほど諸将に気を遣い苦労をしているのか斟酌(しんしゃく)できないのか」

と嘆いた。

頼朝の人心掌握は、戦功よりも除目を受けたという弟である義経の規律違反を否とすることに重きを置いた。表面的には規律の徹底の上に武家支配は成り立っているということを示したのだ。