大政奉還・王政復古

大政奉還たいせいほうかんとは江戸時代の末期、徳川将軍家は天皇家を超えて、日本の実質的支配者として長期にわたり、全国統一封建制度のもとに二六四年間君臨してきた。この実権を天皇家に奏上し、翌日勅許された歴史的な政権の節目をいう。この大政大権の授受について日本の歴史学に於いては、確実なる文献のあかしが確保されていない為、曖昧あいまいな表現でやむなしとする意見もある。然し、現存する史料の範囲で通説を建てないと一般読者には却って混乱することになろう。日本史の彷徨える学識のひとつであると思うから、この点について筆者の認識を説明しておきたい。

徳川家康は慶長五年(一六〇〇年)一〇月二一日、関ケ原に於いて西軍(豊臣・石田三成)に勝利した。慶長八年(一六〇三年)徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開く。そして江戸幕府が天皇及び公家に対する関係を確立する為に、元和元年「禁中並公家諸法度」を発布する。ここに、日本国は天皇家という、象徴的な地位の天皇家と実質支配権を持つ徳川家一族という一国二君制ともとれる支配体制になった。

この体制は、日本国以外の通商・外交担当者には理解されないとか、それまでの歴史用語に「幕府」という用語は統制支配上の用語として使われてきた事実は少ない。従って、徳川家康は江戸に於いて征夷大将軍を任ぜられ、「幕府」という実政の場所を朝廷より承認されていたとは断定されないといったような先行学者の一部に異論がある(『近世日本社会と宋学』渡辺浩わたなべひろし東京大学出版会)。

筆者はこの異論者のこの部分について全くくみしない。浅学と言われようと管見かんけんと言われようと意見をたがえて断言しておきたい。その理由を次にそろえてみる。

確かに徳川家康が江戸に幕府を開設した(一六〇三年)がその時の将軍宣下の授受の為に、京に上洛したという文書は筆者も見たことはない。それでは異論史家の主張する史学とは一体どんなものか。読者もきちんと整理しておかないと、今までの歴史学の認識が完全に無駄なものにもなりかねない。

但し、歴史学の学識・定義は見る角度、立場によってかなり異なったものになることがある。しかし、ここでは一般読者の通説の基準に置いても、何ら問題ないような事柄・用語について、確認の意味も持つ異論に対する異論、批判、叱責のあることをご承知で敢えて愚見を呈したい。