【前回の記事を読む】1日1.5ドルしか稼げない…貧困に苦しむモロッコの切実な実態

貧困と反米のモロッコ スペイン(アルヘシラス)→モロッコ(テトアン)

翌朝、勧められたフェズはやめて、やっぱりカサブランカ行きのバスに乗る。

バスの車窓から見える風景はのどかで平和に見えるが、経済社会の前近代性と経済の停滞による。土地は平坦だが、砂や岩混じりのやせた土地で、その上降雨量も少ないので、農作物もあまり育たない。

馬、ロバ、時にはらくだに鋤を引かせて農地を耕しているが、その土地も馬も、ロバもらくだも、この国の経済と同様にやせてどうしようもない。時々羊の群れを連れた子供や老人に会うが、それらが食べる草さえ生えていない。ただあるのは冬でも強烈な太陽と砂漠だけである。

その中でモロッコ人は強い日差しでもマントを離さないように、このやせた土地と自然の中に住み続けている。

カサブランカ行きのバスの座席は通路を挟んで一列に二人掛けと三人掛けである。そのため、満員になるととても窮屈になる。そして、常に満員である。バスはバス停で止まるのではなく、途中の村々の乗降客がある所で止まる。彼らはたくさんの荷物を持って移動し、乗降のたびにバスの屋根にその荷物を積んだり降ろしたりするので、やたらと時間がかかる。

その上、警察か軍隊のコントロールポイントがところどころにあって、そのたびにバスは止まって屋根の上の荷物を検査するので、時間は経つが移動距離はごくわずかしか進まない。この国の経済成長と同じである。

日本を出国以来北米・中米・南米を一緒に旅行し、七月二十五日にニューヨークで会って以来会っていないEさんに、十一月十八日にパリの安宿の二段ベッドの上下でばったり会い、一週間ほどパリで一緒にいた後はスペイン、ポルトガルと一人旅である。

このモロッコも一人旅であるが、途中いろいろな国の若者と同行することになる。このカサブランカ行きのバスではイギリス人のBと同行。昼食は途中のバス停の前の肉屋で羊の骨付き肉を買って、その隣で焼いてもらってパンと食べる。うまい。Bは途中のラバトで降りる。

八時にテトアンを出発したバスは、夜の二十三時にマラケシュに着いたが、バスで知り合いになったモロッコの若者が安ホテルまで連れて行ってくれる。

ホテルまでの道は二メートルぐらいの幅で、両側には家の壁が立ち並んでいる。その道は直線ではなく屈曲し、分岐しているので迷路状の市街地となっている。そして、狭い道と立ちはだかる家の壁による空間構成によって、灼熱のアフリカの太陽から守られる一方、息苦しくなるような圧迫感を覚える。

だから日本や欧米のように道路が公共空間として通風・採光・相隣・景観などのために一定幅員(最低でも四メートル、中心市街地などのシンボル的な道路では五十~百メートル程度の道路幅員がある)の市街地景観とはまったく異なる、異次元的な都市空間となっている。

昼間のモロッコは暑いくらいだけど、夜は冷え込んでくる。ホテルのベッドには毛布が二枚しかなくて寒くて眠れないので、ベッドから起きて上下の着物を着込んで再び寝る。

ポンペイの遺跡(写真1)

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イタリアのポンペイの街は紀元79年のベスビオス火山の噴火によって廃墟となった。その当時の街並みが発掘されているが、馬車のための車道と人のための歩道が分離され、歩行者の安全のために歩道は車道より高く、石による横断歩道まである。

マラケシュのジャマ・エル・フナ広場(写真2)

[写真2]

当時のモロッコでは移動手段がまだ自動車ではなく、馬車の時代だった。