克裕と喜代子は、店を手伝いながら二人の男の子を育てた。

克裕は大学時代から続けている空手で三段を取り、近所の中学校の武道館で、幼い息子たちとともに小中学生に空手を教えていた。

子供たちの成長に伴い、喜代子は勝気さを増していき、経営者である克裕の両親にも、

「なんで店に来るんですか。その目つきは、なんですか」

などと暴言をはき、店員さんたちも自分の手中に収めようとした。

克裕、第一の試練 ―頭蓋骨骨折―

一九八八年、阿武(あぶ)(くま)急行が全線開通し、角田駅にも電車が停車することになった。

そのお祝いのため、克裕も商工会の手伝いで、四メートルの高さの滑車に乗り、

「オーライ、オーライ」

と町中の電柱から電柱へと、世界中の国旗のフラッグガーランドを取りつけていた。

ふと、その時、突然の停止のせいだろうか。「どん」というにぶい音とともに、克裕は、四メートルの高さから地上のコンクリートに頭から落下してしまった。

意識不明の重体の克裕は、脳外科で有名な仙台の広南病院に救急車で向かうことになる。病名は、頭蓋骨陥没、脳挫傷、脳内出血で、三日間意識不明の重体が続いていた。

しかし、克裕が広南病院に運ばれた時、偶然にも、脳外科学会の期間中であった。

意識が戻った克裕は、担当の医師から、

「脳外科学会に参加されていた先生方のご意見もお聞きして、検査した結果、ギリギリで開頭手術をせずに、点滴で治療することができました」

と言われた。

克裕の病床の周りには、大勢の医師たちが彼の病状を観察に来ていた。

かくして九死に一生を得た克裕だったが、今にして思えば、座敷わらしが克裕を守ってくれたのかもしれない。