【前回の記事を読む】【小説】敗戦から五日後…三好勢と畠山勢の戦いの行方

永禄五年(西暦一五六二年)

三好勢は、長慶様より遣わされた伊沢大和守を陣代とした飯盛衆も加え、六万の大軍で畠山勢を追って河内街道を南下した。

畠山勢は信貴山の麓の教興寺(なわて)で、儂ら三好勢を迎え撃つべく、湿地を巧みに利用した形で布陣していた。これに対して儂ら三好勢も鶴翼に布陣したのであるが、湿地では大軍を動かすことが難しいうえに、久米田の戦いで痛い目に遭わされた根来衆・雑賀衆の鉄砲四千挺が脅威となり、儂らは動けずにいた。

そこで儂は一計を案じ、義長様の許しを得て、一通の(ふみ)をしたためた。

『再度の内通、珍重に候。近日高政親子を誅殺なされる由、目出度く存じ候。その時は当方から軍勢を出して、即時に勝負を決しましょう。

五月十八日      久秀 (花押) 

遊佐河内守殿御陣所 』

「これを安見美作守の御陣に届けよ。ただし、渡したら一目散に逃げて()よ。さもなくば、そこもとの命が危ない」

そう言って、儂は陣僧に(ふみ)を持たせた。

「少々稚拙な策だが、これで先方は多少の疑心暗鬼に陥ろう。さすれば、用兵もままなるまい」

儂は独りごちた。

翌日。その日は早暁から小雨が降っていた。

「若殿、これは天の助け。この天候では、敵は鉄砲を思うようには使えませぬ。本日、ことを決しましょうぞ」

儂の言葉に義長様は頷き、

「先鋒の三好政勝に敵の前衛を叩くよう、申し伝えよ」

伝令が走り、まだ暗い空に法螺貝が響いた。畠山勢の前衛中軍は安見美作守宗房の隊であったが、戦巧者の安見宗房にしては動きが鈍く、両者一進一退を繰り返した。明け方になっても、相変わらずの雨模様であったが、

「信貴山の麓に陣取る我ら左軍の前方には、ぬかるみはなく、いつでも出撃でき申す」

と、鶴翼の左翼に陣取る松山重治から伝令があった。

「よし、松山重治、三好長逸ほか摂津衆は討って出よ」

義長様は采配を振るった。