急ぎ都に戻った義仲に法皇は憤った。

「何故勝手に戻った。平家討伐停止の院宣は出しておらぬぞ」

「されば。鎌倉より義経なる者が万余の軍を引き連れて都を目指していると聞きました。都を守護するのが私の役目と心得ておりますれば」

「必要と判断すれば、宮廷守護の院宣を出すわ。それまでは、今受けている命令を遂行するのがそなたの使命ぞ」

「されど」

「言い訳は聞かぬ。それに、頼朝そして義経とやらは同じ源氏ではないか、しかも両人はそちの従兄弟と訊く。まず、軍派遣の真意を鎌倉に聞くのが先であろう」

義仲は行家が法皇に現状をどう伝えているのか聞きたかったが、そのまま辞するしかなかった。堀川館に戻った義仲は義経の動向を探ったが、情報網にかからなかった。つまり、大軍が消えたとしか言いようがなかった。

ここに行家なる者の名が出てきたが、この者は今後義経、静に悪霊の如く絡んでくる。

行家とは新宮十郎行家である。保元の乱で敗れた為義の十男で義朝の末弟であったが、刑死を免れ新宮に流された。そこで修験の法を身に付け弁も立つ。経文も読めるし那智の滝で荒行も経験している。山伏として暮らしていけたが、自分に源氏の血が流れていることを忘れなかった。

鹿ケ谷事件を聞いた行家は熊野から抜け出て一旗揚げようとした。しかし、頼朝同様何も持っていない。ただ、人を動かす話術には自信があった。法皇の次男で不遇の以仁王に近付き、平家討伐の令旨を書かせた。それを前面に押し出して残存する源氏一党を自ら巡り旗揚げを促し、平家がその鎮圧に向かい、留守となった都を制して権力を得ようという策を思い付いた。

最初に訪れた頼朝は、行家は腹に野望と企みが潜んだ策士と見抜き、取り敢えずは受けたことにして甲斐・信濃に追い払った。頼朝は思ったより甘くはなかったのだ。

頼朝はじめ東国の源氏を捨て石にして京を制する策は、平家の知るところとなった。行家は東国に向かう前に自分の女にこの策を得意げに漏らしていた。その女が訴え出てしまったのだ。

頼政は露顕を知ると、行家の軽佻浮薄を嘆く間もなく以仁王を伴って都を落ちた。園城寺・叡山を頼ったが平家の手がすでに廻っていた。止む無く南都(奈良)を目指したが宇治川付近で阻まれ、頼政・仲綱親子は自刃、以仁王は流れ矢に当たり果てた。行家が甲斐・信濃辺りを巡っていた時に二人は既に亡き人だったのだ。

義仲は、以仁王の令旨を携えて訪れた行家を叔父として受け入れた。