それから薬の効果で、少しずつ心も体も快方に向かっていったが、抗うつ剤を処方されてから、私の中で自殺願望が強くなっていった。今度は、死ぬことばかり考えるようになった。処方された睡眠剤を全部並べて眺めてみたり、夜中自分で首を絞めたりしたが成功しなかった。

最後は夏だった。近くのスーパーまで夜の散歩をすることに決めた。往復三十分ほどの間に車にひかれようと思いつめていた。場所も決めていたので、その場所に立ち止り車が来るのを待つのだが、思いの外スピードを出した車ばかりで恐ろしかった。

ボーっと立ち尽くす日の連続だった。

夫は「夜の散歩は危険だから」と止めたが、私は「大丈夫だ」と強引に実行した。これは自殺ではなく、偶発的な事故死だと思わせなければならない。毎晩さりげなく別れを告げた。

ある晩覚悟を決めた。フラフラと道路に出た時、私を避けるように、黒い車がすぐ隣を通り過ぎて行った。

ヒヤリとした。運転の下手な人ならひかれていたかもしれない距離。こんな時も冷静だった。やはり駄目だったのだと思った。そして、せめて死に顔だけは、息子たちに母の顔を残してあげたいと思ったことは覚えている。また、私も車を運転する者として、こんなことをしてはいけないと戒め、その日を境に散歩を止めた。

それからのことは、書きすぎたので止めておこう。

ただ、完治するまでの、七年におよぶ生活は相当厳しかった。とにかく一日の時間が長すぎるのだ。何もすることが見つからず、最初の冬の日は、新聞紙を細かくちぎり続けた。広告の多い日は嬉しかったことを覚えている。このような時間感覚は確かに矛盾に満ちている。一日が長くて仕方がなかった。あれほどテレビが怖かったのに、いつの間にかテレビづけに変わっていった。

ただ、整形外科の先生の勧めで散歩を始めるようになってから、私の中で少し変化が訪れた。運動綜合公園の散歩仲間の皆さんには、ずいぶん助けて頂いた。

ユーモアたっぷりの今は亡きS氏と奥様。お地蔵さんのようなKさん。物知り博士のMさん。その人たちとの毎日のおしゃべりは楽しかった。特に、S氏のユーモアにはどんなに救われたことか。まるで子どもみたいにいつも無邪気になれた。誰も公園にいないと、もうどうしていいのか分からず、パニック状態になった。

雨が少ないある年、

「裸になって歩いてみたら雨が降るかもしれないよ」

と言われた。

「私が裸になったら、赤い雨が降りますよ」

と答えたら、私の太い体を見て、

「そりゃそうだ」

と笑われた。私もゲラゲラ笑った。そして、大声で笑っている自分に驚いたことがあった。