【前回の記事を読む】心も体も元気なのに自殺願望は強くなり…抗うつ剤の悲惨な結果

フランクル『夜と霧』への旅

ベルグソン(フランスの哲学者)は、知性のこわばりが取れた時笑いが生まれると考えたそうだが、知性でなくても、笑いは確かに人の心をほぐしてくれる。そこには、生命を躍動させる何かがあるのだろう。フランクルも、ユーモアは自分を見失わないための魂の武器だと語っている。そのように私も、少しずつ生きるエネルギーを取り戻していったように思う。

そして、強制収容所で亡くなった若い女性とマロニエの木とのエピソードは、私の心に特別な物語のように響いた。数日のうちに死ぬことを悟っていたのに「運命に感謝しています」と言い、

「木はこういうんです。私はここにいるよ。私は、ここに、いるよ。私は命、永遠の命だって……」

二〇一八年、改めて『フランクル『夜と霧』への旅』を拝読した。そして、仕事としての意識を越えて、フランクルを知ろうとした人の見事な巡礼。私などが知り得ない深い洞察の本であったことを知り、あの日の私を恥じた。

それに私は、よく知られているある宗教団体の合宿に参加したことがある。

学生時代、クラスの友人の誘いで、気楽に参加したその場所は、宗教名も勧誘目的も知らずに参加したのだが、五日間の研修はとても恐ろしかった。食事時間を除いた、午前と午後、分厚い本をあてがわれ講義が行われるのだが、人間が生きていく道はこの教えの中にしか存在しないと思わせるほど強烈だった。

巧みな講義に引き込まれるのだ。夜はディスカッションで、十五名ほどの若い男女が、それぞれ、今何を考え生きているのかを語り合った。その中に、京都大学の哲学専攻の三人がいて、カントとかヘーゲルを熱く語り、二人は将来学者になりたいと語っていた。人間とは何か。生きる意味を真摯に探している純粋な人たちに思えた。私は二日目からその講義が恐ろしくなり、

「下宿が焼える、下宿が焼える」と呪文のように声を出さずに唱え続けた。そんな想定をして、自分の気持ちを現実に向けなければ、引き込まれそうになるのだ。

三日目の夜、その三人組の一人が立ち上がり、「お父様!」と手を合わせて絶叫した。四日目、もう一人が同じように絶叫した。二人は、たぶん大学を退学するだろうと思った。マインドコントロールは一人の人生をあっという間に変えてしまうものらしい。

自分の行動がコントロールできなくなった経験を持つ者として、信じられない事件が多発している現代、病的なものが人の心を襲う恐ろしさに自分を重ねてしまうことがある。うつ病もまた、かつて心の風邪といわれたほど容易い問題ではない。一歩間違えれば、死の世界へと導かれる怖い病気である。

河原氏の最終章。「あたかも二度目を生きるように」は、W・ジェームズの「二度生まれ」を連想させるように、私には響いた。最後の「あかるくて、かなしくて、空っぽで、満たされている」の素晴しい表現は、悲しみを見つめた人しかつぶやけない文章だと、偉そうに思った。そして改めて、『フランクル『夜と霧』への旅』は、素晴しい本だと思った。