【前回の記事を読む】母は「商店街のマドンナ」…美形一家に生まれた少女の悩み

マドンナの娘

島田美琴はユーカリの木にしがみついて動かないコアラをぼんやりと眺めていた。六月中旬で梅雨入り間近だが雲間に青空がのぞき、園内は家族連れやカップルで賑わっている。

美琴は昨年から、大人向けの絵画教室に参加していた。通常は隔週の土曜日に室内で講習が行われるが、この日は年に数回ある屋外でのスケッチ会が緑山動植物園で開催されていた。ちょうどアジサイの花が咲き始めていたので、アジサイ園を中心に思い思いの風景や動物などの題材を描くことになっていた。

色も形もとりどりのアジサイの植栽を入れた風景を一枚、縞キリンの親子を二枚、それぞれ水彩で描いて、さっきから絵筆が止まっている美琴のところに、教室の主宰者で講師の(つた)(かず)(ふみ)が見廻りに来た。

「やあ、島田さん、もう描けました?」

(えん)()色のバケットハットを被った画家は美琴のスケッチブックを覗き込む。

「ああ、構図いいね。この木の影はもう少し濃くしたほうがいい」

五十代後半であるらしい蔦は有名画家とは言い難いが、小中学生コースと一般コースそれぞれの老若男女から「親しみやすくて、教え方が上手」と評判が良かった。

「そろそろ昼にしようか」

昼食を持参した人たちは植物園に近い休憩所で、持って来ない人は動物園側のフードコートで、適宜分かれて食べることになっていた。蔦は六、七人の年配の男女を連れて植物園の方へ歩いて行った。フードコートには美琴と、四十歳くらいの()(かげ)なつきという女性と、美大を出て教室を手伝っている(せん)(どう)(れん)という青年が行くことになった。

美琴は愛知県の大学を卒業後、ショッピングモールを運営する会社の総合職として入社し、モールでの衣料品売場担当を経て、今は名古屋にオフィスを置く東海地方事業本部の営業企画部で働いている。

美琴は、仕事が好きだと思う。お客様相手に衣料品を販売することも楽しかったが、営業企画部でテナントの出店者相手に交渉をしたり、季節ごとにイベントの企画を立て準備を積み重ねたりする今の職場にもやりがいを感じる。部課の飲み会にも率先して参加するし、同期のつきあいも欠かさない。社会人として十年近く充実した生活を送ってきたはずの美琴だったが、三十歳を越えて少し風景が違って見えるようになった。

同期や学生時代の友人の半数以上が結婚し、その多くが子供を産んでいる。同世代の女性社員は育児休暇中であったり、仕事に復帰しても子育てと仕事の両立に大忙しだったりと、美琴につきあってくれる余裕はない。特に休日を持て余すようになって、昨年秋にたまたま街角のポスターで見かけた名古屋在住の画家が主宰する絵画教室に通うことを決めた。

美琴は中学生のときに美術部に入部したが、顧問から本格的な指導を受けたこともなかったし、もう何年も絵筆に触れていなかったので、ほとんど初心者だ。