しかしながら、日本の海運業はどうだったかというと、国内に限ってそれはとても盛んで、日本海沿岸部では北前船、太平洋側では東廻り廻船、菱垣・樽廻船、瀬戸内海では西回り航路などあり、多くの産物が日本国中を行き来していたのだ。北前船は主に米、他に酒、味噌、醤油、油、魚粉、木綿、紙などを運び、寄港する港で商売しながら移動するのである。

運ばれるものに瀬戸内の塩、蝦夷の昆布、琉球の砂糖などというのもあった。さらに、その流通経路に乗って中国や東南アジアから、隣藩の富山藩が製薬する反魂丹、六神丸の材料である朝鮮ニンジン、甘草、樟脳、ジャ香などの薬物までもが運ばれたのである。

弁財船は一枚帆であったから、風に逆らって進めず、風待ちのための待避港があちこちにでき、燈台もつくられた。

河北藩で最も大きな港町は金崎港で粗衣川の河口にある。粗衣川は二河盆地の西の境となる潮見台に沿って南に流れ、守谷口の手前で一旦はお玉が池という人工池に注ぎ、そこから守谷口の谷間を経て二河平野に流れ出していた。後は二河平野を北西に向かい金崎港の海に注いでいる。

外洋から金崎港に運びこまれた物資は、粗衣川を遡って二河城下に運ばれる。そのうえ、金崎港は漁港でもあったので、朝どれの新鮮な魚が早船で城下の市場に運ばれるなどしたので、粗衣川は船の往来が盛んだった。

港を取り仕切っているのは舟手奉行の神流(かんな)豪右衛門である。根はいたって優しいのだが、体が大きく、強面の顔をしている。その顔で見つめられると、誰もがいすくまれてしまうのだ。神流の仕事には港湾の治安管理も含まれていて、舟手奉行所での評定となると人が変わるので恐れられていた。

出入りする船は必ず届け出をすることが定められていた。港に入れないような大船の場合、小舟で荷を運ばなければならないから、小舟どうしが衝突して荷を流すなど、つまらない事故が起きないようにするためである。

治安に関しては、港だから水夫や漁師が集まるのは当然として、荷揚げ人夫の需要が多く、その仕事にありつこうとあぶれ者、流れ者、食い詰め者などの輩も集まってきた。だから、港では無銭飲食や喧嘩が多く、それらを取り締まるのに手を焼く始末で、勢い、荷改めなどできず、抜け荷にまで目は届かなかった。

廻船問屋である勢戸屋は、金崎港での荷の搬入量が多く、その上、頻度も多かったから、舟手奉行所などに目をつけられないようにと、上から下までたっぷりとつけ届けを欠かしていない。

実際、勢戸屋は金崎港に抜け荷の荷を運び込むときは、こそこそとはやらなかった。荷改めが行われていれば話は別だが、普通の荷に混ぜて目立たなくするだけだった。それで、まずばれることはなかった。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『祥月命日』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。