さて発売は開店の十一時から。和枝、遥、廉の三人は十時四十分に店に到着。ところがすでに三組来ており、平林家は四番目の椅子で待つことになった。来店先着順に店との交渉権が得られる仕組みで、一番目の人は朝八時半から並んでいたそうだ。

まもなく和枝ら三姉妹の真ん中の姉、美月も千葉の東金からこの販売会のために駆けつけてくれた。美月は和枝とは一歳違いで、やはり音大のピアノ科を出て、私立大学付属小学校の音楽教師を長らく務めてきた。クリスチャンでもあり、母校でパイプオルガンも学んでいて、鍵盤楽器全般の知識が豊富だった。

いよいよ順番が回ってきた。ショールームの新品B型の列の端に一九八〇年製のスタインウェイが置かれていた。ピアノの先生をしていた方が、老人ホームに入るのを機に手放すことになったとのこと。

和枝、美月の順で試弾。専門家二人によると、いいピアノには違いないが、高音部がカタカタ鳴る感じが引っかかる。それに中音域の音の出方が物足りないとのこと。美月は「高い音はちょっと木琴チックね」と言っていた。

廉は、初めての来店時に和枝が弾いた、通路を隔てて後方にある新品のA型の音の方が良いように思い、これなら今回はちょっとパスしてもいいのかなと感じていた。所詮交渉権は四番目。ウチに回っては来ないだろう。

美月と四人、有楽町でドイツ料理の店に入った。和枝はそれでもさっきのB型にかすかな未練があった。かなりいい楽器、というタッチ感がその手には残っていた。

「音色の難点は調律や整音でカバーできるんじゃないかな? 人手に渡ってしまうのはやっぱりちょっと悔しいな」

六二〇万円でB型が手に入るというのも魅力だった。でもこの楽器は後日、「十月二十六日にご契約いただきました」との手紙が呉羽楽器から届く。一番目の人が購入したとのことだった。振り出しに戻ったが、和枝もそれはそれでさっぱり気持ちを切り替えていた。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『遥かな幻想曲』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。