主題ハ長調

風に吹かれて

呉羽楽器のB型中古は先日一回目のチャンスを逃してしまったし、A型の新品は、セレクションルームまで行けばきっと意中の逸品が見つかるんじゃないかなと廉は思った。

和枝にしても、もうこの頃にはスタインウェイを買うのが荒唐無稽な話ではなくなっていたのだと思う。

そして気付いてみると、いつの間にか二人の金銭感覚も麻痺してきていた。七〇〇万円でも「安い」と感じるようになっていたのだ。善し悪しの問題ではなく。

和枝と「成田社長との商談にもそろそろ答えを出さないとね」と話しながら新高島駅で別れ、廉は会社に向かった。

その日の午後のことだった。転機の風が突然、それも全く予想外の方向から吹いてきた。

K県発注工事を巡る談合事件の容疑者から、廉の勤める新聞社の記者が数万円を受け取っていたことが発覚し、即日処分された。取材相手との現金授受ということで新聞各紙、テレビ各局もすぐに反応し、編集局内には綱紀粛正の全員メールが流れた。

深夜帰宅し、すぐ寝床に就いた廉だったが、和枝の寝顔を見ていると何だかモヤモヤした気持ちがこみ上げてきて、なかなか寝付けなかった。

翌朝、リビングに下りて顔を合わせると、和枝が開口一番「ねえ廉、成田さんの所からピアノ買って大丈夫なの?」と聞いてきた。

「昨日の報道を聞いてそう思ったの? でもあの一件と今回のウチらの商談とでは全く種類の違う話だよ」

「でもさ……。何か引っかかるんだよね」

和枝も不安に思っていたのだ。これで五割方腹は決まった。廉は新潟に住む父親に相談。

「やめておいた方が無難かもしれない」との返事。

そして最後に自分の所属長である清水編集長に意見を求める。折が折なだけに報告を兼ねた質問のつもりで。

けれど編集長はいいとも悪いともコメントしない。「大きい買い物」に配慮してくれてのことなのかどうか、黙って廉の目を見ている。

そこで廉は質問を変える。

「そういう値引きを提案されたら、清水さんなら買いますか?」

「いや、俺なら買わないけど」間髪入れず答えが返ってきた。

これで廉の対応は決まった。「成田さんの所からピアノは買えない」と。成田社長の破格の値引き提案には取材へのお礼が込められており、それは彼自身明言していた。

ホロヴィッツの企画が記事になった時点で、新高島ピアノサロンにとっては明らかに宣伝になったわけで、その対価として「値引き」が生じたとすれば、立派にカネが動いたという解釈も成り立つのではないだろうか。そうでなくても、後々「行き過ぎた廉売」とどこからか叩かれないとも限らない。

値引き額二〇〇万円。最後はこの数字をどう受け止めたら良いかわからなくなった。考え過ぎかもしれないと思いながらも、廉はここで結論を出し、あの温厚で親切だった成田社長に頭を下げた。