少し話が飛躍するが、人間以外の動物、例えば猫に詩情があるのだろうか。猫は猫なで声で人間にメッセージ(挨拶)を送る。「日向ぼっこは気持ちがいいよ」とか「腹が減ったので、おやつを食べたい」などと。

前者は報告であり、後者は原因と結果なので、俳句で詠む詩情とはならない。そんな猫でも窓のガラス越しに、降る落葉や小鳥(秋の季語)をじっと見てニャーと鳴くことがある。その時彼らが味わっているかも知れない感動(?)を、人間は知るすべがないので、猫も詩情を感じているのかどうかはわからない。適切な形で表現されてこそ詩情である。

詠むべき感動や発見があったならば、それを表現したい。詩情を文字で表現する手法は、俳句の詠み手によって異なるが、俳句は座の文芸であるから、詠もうとするイメージや思いが句を読む人にきちんと伝わらなければならない。十七音という制約を乗り越えてそれを行うのである。

俳人はこれまで膨大な句を詠み、様々な表現上の試行錯誤を行ってきた。読み手も鑑賞や助言をすることで、句の表現の改善に寄与している。俳句の神様が、才能のある俳人を通じて天啓を与え、優れた俳句表現の例を示したこともある。

俳句表現こそ、俳句が詩であり続けるために、模索され続けられなければならないものである。句会で他の人の表現手法に多く接し、先人の句集を丹念に読んで自ら学ぶしかない。

※本記事は、2021年5月刊行の書籍『春風や俳句神様降りてきて』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。