季語は薬に例えられるように思う。効き目のある薬を的確に用いれば、病気は治るが、誤った薬の使用は命取りになることがある。俳句も適切な季語を用いれば季節感のある佳句ができ、選択を誤れば俳句が死んでしまう。

薬を飲む時によく効能を確認するように、俳句では、本意に注目して季語を用いることが肝要だと思う。これを神様に話したら、やっとそのことに気がついたのかと言われてしまった。

私は、表現についての説明は面倒なので、モカコーヒーのカップを飲み干して、トイレに立った。私がいない間に、三人の話題が俳句以外に移っていることを期待してだ。

だが私は甘かった。席に戻った私に、待っていたぞとばかりに立村からのリクエストだ。

「松岡の俳句方程式で一番ウエイトの高い、表現について説明が残っているぞ。作句のポイントのようだから、わかりやすく説明しろよ」

私の俳句方程式は、俳句(の出来栄え)=句材×季節感×表現である。ここで、表現のウエイトの最高値が五と高いのは、表現こそ俳句を詩とするものと考えるからだ。

俳句とは十七音で『詩情』を(すく)いあげるものだと私は思う。そこで『詩情』とは何かを明確にしなければならない。

そのことを親しい句友に尋ね、本を読んだ。だが、いずれも答えはあやふやで、私の納得のゆく答えは返ってこなかった。だから、自分なりに随分考えた。まだ、完全な定義は見つからないが、今の時点で、私はこう考えている。

私たちの体内に心の動きを計測する機械があるとしよう。人間生きていると、外界からいろいろな刺激を受けるので、私たちの心の計測機はしきりにピクリと動く。大きく振れることも、小さな波のこともある。

もし、心の波が突然大きく動いた時、その原因となった刺激が、何かの形で残しておきたいと思うようなものであったならば、それこそが『詩情』だ。

絵や写真が得意な人は、詩情を映像で残そうとする。音楽の好きな人は、詩情をメロディやリズムで口ずさみ、五線紙に書き込む。詩情を文字で残そうとする人もいる。詩人や小説家である。詩人のうちでも、十七音という最小の詩の形で表現するというストイックな一団は、俳人と呼ばれる。