第一章

母は仕事で帰りが遅くなることが多く、私は祖父母の家で夕飯を食べ、テレビを見ながら待つのが日課だった。母が迎えに来ると、私の顔は明るくなり一目散に母に駆け寄って飛びついた。母の胸元に顔を埋めて鼻から大きく息を吸い込み、母の匂いを感じる。これほど心地よい瞬間が他にあるだろうか。

そんな私を見て、母も抱きしめ返してくれる。私はうっとりしてその瞬間の幸せをかみしめていた。

祖父母と過ごす時間が長いせいか、母をみると「若いママ」がきたという感覚になる。仕事と家庭の両立は大変で、身を削るような思いをしていた母は、祖父母のおかげでなんとか乗り越えていた。どんな苦境に立たされても諦めず、家族を何よりも大事に思っている姿は子どもの私にも理解できるほどで、働いている姿をかっこいいと思っていた。少し寂しい思いもしていたが、夜になって会えた時の幸せは何倍も大きかった。

父はだいたい帰宅するのが夜の十時から十時三十分の間で、私と兄はいつも先に寝ている。週に二回くらい、私達の好きなケーキや菓子類を仕事帰りに買ってきてはその度に起こした。父は私達を喜ばせたかったのだが、その実、子どもを喜ばせている自分に満足しているだけだ。

小さい子ども達を寝かせた後、わざわざ起こしてまでケーキを食べさせる父のやり方が、母は気に入らなかった。勉強面では父のやり方を尊重していた母も、生活面においては父と考え方が合わなかったために口論は絶えなかった。

一度機嫌を損ねると誰も止められないくらい怒りが爆発する父。普段から大きくよく通る太い声なのだが、その三倍ものヴォリュームに膨れ上がる。何がきっかけで逆鱗に触れるのか家族の誰にも分からなかった。

時にはお腹が空くだけで苛々しだし、家族で外食に出かけても、順番待ちで並ばないといけないと分かれば怒りだす。やっと席についてご飯にありついたと思うと、私や兄の話がくだらないと怒りだす。

あげくには店員の態度が気に食わないとご飯を中断し、一人で先に店を出る。母はとてもバツの悪い顔をして恥ずかしそうにし、私と兄は食欲が失せ、ご馳走を前に出て行ってしまった父のあとを追った。

それは私がまだ二歳くらいの時だった。キッチンで怒鳴りながら母に詰め寄る父を見て、端に追い込まれた母を「助けなきゃ」と泣きながら二人の間に入る幼き私がいた。今もそのワンシーンが白黒写真のように頭に残っている。幼い私は大好きな母を助けたい一心だった。

そんな父の機嫌を伺いながらの生活は、とてもじゃないが楽しいものではなかった。