立村が元気よく手を上げた。

「自分の俳号は、立村(さん)(とう)にした。昨日、中澤が言ったように、自分は山と温泉がめっぽう好きだから、両方から取った。自分の好きな放浪の俳人種田山頭(たねださんとう)()と発音が似ているのが自慢だ。自分も山頭火のように、心に浮かんだことを、ぽろっと俳句にしてみたい。俳句は、

時雨降り誰も入らぬ露天風呂   立村山湯

昨日風呂場の窓から見た光景を、単純にそのまま写生してみた」

(さん)(とう)とは、立村らしいユニークな俳号だね。ただし、俳句は(さん)(とう)ではなく、一等を目指してほしい。また、種田山頭火を目指すのはよいが、まず手始めは、有季定型、すなわち季語を用いて五七五で詠む俳句を作ることを勧める。定型に十分慣れてから自由律俳句に移った方がいいだろう。山頭火もそうしたと聞いたよ。

俳句の方は、時雨が降っているので、露天風呂に入っている人がいないという、原因結果の句になっている。それに誰も入っていない露天風呂を詠んでも今一つ面白くないかな。雨の降る露天風呂に入って詠んでみたい」

「あの雨の中で、露天風呂に入れってか」

「そう、俳人というのはすごく好奇心が旺盛じゃないといけないんだ。珍しい物や事柄に目がなくて、自分で触れて、匂いをかいで、味わって、その自己体験を詠もうとする。そのような機会と挑戦は逃さないよう目配りしているので、普通の人から、俳人は少なからず変人に見られる。

俳人が来店すると、商品を手に取り、縦横斜め、そして裏返して見たり、撫でまわして肌触りや色や匂いをじっくりチェックするので、お店では歓迎されない人種のようだ。私もさっき一人で雨の露天風呂に入ってみたよ。それを思い出して詠んでみる。

小夜(さよ)時雨(しぐれ)()()降りくる湯気の中

『小夜時雨』と『木の葉』の季重なり(両方とも冬の季語)だが、小夜時雨が主、木の葉が従の季語となり許されると思う。露天風呂とはっきり言わなくても、降り『くる』という言葉と『湯気の中』で、私が露天風呂の中にいるのがわかると思う。

ここで中七を『降りくるや』と切ると、上五の『小夜時雨』の後でも切れているので、三段切れになってしまう。上五を『小夜時雨』にしたのは、五音にするため。私が露天風呂に入ったのは午前中だったが、それを夜のこととした。夜の方が、冬の寂しさが増すと思うからだ。これくらいの脚色は、俳句の世界では許されていることだと思う。

雨の中、頭に手ぬぐいを載せて、木の葉がゆっくり湯船に落ちてくるのを見ている。外に出ると寒いので、出るに出られずじっと湯の中にいる。湯加減も冷たい雨に冷まされてぬるめなので、のぼせる心配がない。山湯は窓から見た光景を『そのまま写生した』と言ったが、言葉尻をとらえるようだけれど、それは少し違う。

事実をそのまま報告するのが写生ではなく、君の心のフィルターを通して、印象に残ったものとそうでないものを分類して、これぞというものを表現するのが俳句の写生だ。スケッチをする時にも、目の前の光景を全て描くのではなく、自分が面白いと思ったもの、心ひかれたものを選んで描く。

そうでないものは、省略するじゃないか。自分が選択的に捉えたものを君の感覚でデザインして表現してほしい。写真で同じ光景を撮れば、こうした選択がなく全部写ってしまう。俳句は、見た光景から何かを選択し、それをどう表現するかがポイントだから、工夫の余地があり、それが俳句の楽しさだと思う。俳句は十七音という短い『もの言えない』形式だからこそ、選択が大切だ」