箱根の宿 二日目午前

三人は、私が主宰や先輩からもらったアドバイスをメモしていた。それが終わると、中澤が少し躊躇(ちゅうちょ)した後、真面目な顔で質問した。

「松岡、俺たち俳句を始めるにあたって、俳句用の名前、俳号というのか、それつけた方がよいのか」

本名で俳句をやっている人も多いが、私は俳号があった方が良いように思う。君も合気道をする時、合気道衣を着るだろう。剣道をする人は剣道着に着替える。私は大学時代に茶道研究会に所属していたが、茶道用の小扇子を手にすると、和敬清寂(わけいせいじゃく)の気持ちになったものだ。それと同じように、俳号を使うと現実の社会からすぐに俳句の世界に入れるような気がする。

役者が芸名で舞台に上がって演技するように、芸者が粋な源氏名でお座敷に出るように、私たちも俳号を用いることで、日常生活を離れ、全く別の人格になった気分で、俳句という場で自由に遊ぶことができる。形から入るというやつだ。

「じゃあ、俳号のつけ方ってあるのか」

市島からフォローの質問がきた。

俳号を用いず本名のままの人も多数いる。しかし、俳句は遊びだから、遊び心で俳号をつけるのもいいのじゃないのかな。俳号のつけ方は、本名の姓はそのままで名だけ変えたり、姓と名と全部変える、あるいは、姓を用いないやり方がある。名の方を、同じ読みをする別の漢字にしたり、平仮名やカタカナ書きにする人もいる。

自分の好きなもの、例えば、草花や好きな物の名前や自分を表すような名詞を俳号にする俳人も多い。命名は、子供が生まれた時や、ペットを飼った時、クリスチャンならば洗礼名ぐらいしかしないものだ。そんな貴重な機会なのだから、格好良い名前を自分につけてみたらいいよ。

俳号は、投句する場合以外にも、しょっちゅう使う。例えば自分の選句を発表する時、「□□△△(せん)」と俳号を名乗った後に句を披露するし、自分の句が選句された時にも、大きな声で「□□△△」または「△△」と俳号で名乗りをあげる。だからあまり変な俳号だと、その度に失笑を買うことになるから、不真面目なところのある君たちは、俳号を決めるにあたって、妙な洒落っ気を出したりしないように、くれぐれも注意すること。

また、俳人の間では、俳号で呼び合うのが普通だ。さあ、自分の俳号を考えて、それを用いて君たちの俳句の処女作を作ってみてくれたまえ。今は秋だから、秋の季語か冬の季語を使うように。季語はスマホで検索すれば出てくる。私は宿を出る前に、君たちから解放されて、もう一度ゆっくり朝風呂を浴びてくる。君たちがどんな俳句を作るのか、楽しみだ。