異国船難破事件と抜け荷の関係とは

最近の藩内で起きた重大事件というと、昨年の春先に、南の藩境にある坊の入り江に、とてつもない大きさの三本マストの異国の帆船が座礁難破したことである。藩はこの事件を幕府に報告し対応を求めたが、幕府からは勝手たるべしという沙汰があったのみだった。幕府も長崎の出島に問い合わせたりしたのだ。

しかしながら、船が船籍不明であるとわかると、生存者がいないこともあり、外交問題に発展しないと判断した。幕府は面倒を避けたのだ。ところが、その事故のことで、河北藩が幕府に報告しなかったことが多々あったのである。

そのなかでの一番の問題は、その異国船が大砲で武装していたことである。それも、たったの一隻で四十門という数の多さだった。軍奉行の萱野軍平は、異国船の武装は藩の海防に関わる由々しき問題だとして、その戦闘能力を知ろうと、大砲を船から降ろして試射をし、その破壊力を確認した。

また、異国船の性能を知るためには、船の構造や機動性を詳しく知る必要があると、船大工の匠を呼んで詳しく調べさせた。その間、異国船のことが噂にならぬようにと、近隣の人の出入りを禁止し、厳しく緘口令を敷き、半月以内に船に火をかけて燃やしてしまったから、一般に知られることもなく噂にもならなかった。

難破船の事故と抜け荷がどう結びつくのかは、家老の岩淵郭之進の隠密である諸星玄臣が、廻船問屋の勢戸屋を調べていて、勢戸屋が砂糖の抜け荷をしているとの疑惑を掴んだが、砂糖が何所から運び込まれているのかがわからなかった。そのうちに抜け荷そのものの形跡が無くなってしまった。

後で気づいたのだが、その切っ掛けが、坊の入り江で起きた異国船の難破事件だったのだ。異国船の難破事件から一年近くが経つと、また市中に砂糖が出回り始めた。そこへ持ってきて、疾の海防番士の行方不明事件が起きたのである。

海防番士の行方不明事件は、異国船の座礁事件の前にも起きたことがあった。そのときは一人の遺体も見つからなかった。ちょうど、海が時化ていたこともあって、そのせいでの海難事故だったとして捜索が打ち切られた経緯がある。

だが、今回の事件では、行方不明の番士の遺体が坊の入り江の鷲の嘴で見つかったのだ。その遺体には鉄砲傷と鉤裂に切られた痕があったのである。