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巡礼 尾関当遵

この寺は幕末維新の事件で時々その名を目にする寺である。

一度、当遵の墓を訪ねようと京都市の山科にあるこの寺に行ったことがあるが、そこで「この今の寺は六條堀川から移ってきており、元の寺の墓地は元の寺があった辺りに残っているはずだ、西本願寺の北の辺りだ」と教えられた。そこで市内に戻り西本願寺の辺りをしばらくうろうろしたが、この時は当遵の墓を尋ね当てることができなかった。

■福知山藩

譜代3万2千石、藩主朽木為綱の福知山藩は、鳥羽伏見戦時、旧幕府側で大坂の警備に当たっていた。西園寺公望を総督とする山陰道鎮撫の一行は1月14日に福知山に着いたが、藩から勤皇の誓紙を差し出すと、特に藩の落ち度を咎めることもなく、無事通過して行った。

『福知山市史』によると、ところが2月も半ばになって、鳥取まで進んでいた鎮撫総督の本営から藩に呼び出しがあり、重臣が出頭すると、いろいろ難癖をつけられ、特に2月19日には、総督府の薩摩陣営で次の一件を詰問された。すなわち、鳥羽伏見戦時、福知山藩は旧幕府の命令で大坂の安治川口通船改所で警備に当たっていた。

1月6日、たまたまそこに一人の薩摩藩士が上陸してきた。それを詰合いの福知山藩士が召し捕り、大坂町奉行所に引き渡した。その際の召し捕り方が粗暴無礼であったというのである。

1月6日は慶喜が大坂城を抜け出した日であり、末端では未だ旧幕府による統治が生きていたということであろう。一日遅かったらそうではなかったかもしれない。