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巡礼 熊田恰

宮津藩

譜代7万石、藩主本庄宗武の宮津藩は、鳥羽伏見戦時藩主は江戸にいたが、藩兵が旧幕府側で八幡の警備に当たり、敗走する旧幕軍を追って南下してきた長州軍に発砲した。

藩主不在の中、1月13日、重臣たちは福知山に到着した山陰道鎮撫総督の元に伺候したが、目通りは許されなかった。しかし、1月23日、宮津に入った総督に恐る恐る恭順を申し出ると、さしたることもなく降伏帰順を認められた。新政府軍としての出兵や軍資金の献納の命令もなかった。5月23日には、藩主の罪が許された。

宮津藩については、1866年の第二次長州征伐の際、老中として幕府軍の副総督であった当時の藩主宗秀が、人質となっていた長州藩の家老を一存で釈放し、このため幕府の取調べを受け老中を罷免、隠居謹慎を命じられるということがあった。寛大な処置には、この一件も影響していたのではないかと言われている。

大垣藩

譜代10万石の大垣藩藩主戸田氏共は、大政奉還後も旧幕府に忠順で、再三にわたる朝廷からの出京の要請にも応じようとしなかった。

その中で、大垣藩藩士小原鉄心は勤王の志が厚く、それが藩外にも広く知られ、鳥羽伏見戦の直前には新政府の参与に任じられて京都にいた。鳥羽伏見戦では、大垣藩兵は旧幕側で薩長軍と戦い敗退、1月11日には薩摩藩などに大垣藩征討が命じられた。

鉄心は、藩への寛恕を求めて京都で八方手を尽くすとともに、急ぎ大垣に帰り、藩主以下を説得して藩論を勤皇に転じさせた。

1月16日、藩主は京に上って謝罪。翌日朝廷は氏共に、東山道鎮撫軍の先鋒となって功を立て、自ら贖罪することを命じた。

大垣藩では1千名以上の藩兵を出して各地に転戦、4月15日には「大垣藩兵、東山道ノ軍ニ従ヒテ功アリ、乃チ藩主戸田氏共ノ罪ヲ許シ……」とされている。その後も大垣藩兵は、宇都宮城奪回、白河城奪回、長岡城攻撃、会津城攻撃と各地で奮戦した。

高松藩

連枝12万石の高松藩では、鳥羽伏見戦時藩主松平頼聰は高松にいたが、在坂の藩士が旧幕軍に加わって伏見に進み、事情もよくわからぬまま薩長軍に発砲した。

このため、1月11日には、土佐藩などに高松藩討伐の命が下った。

藩では、鳥羽伏見のことは藩主の与り知らなかったことであり、また藩兵も後方にいて事情がよくわからなかったとして、ひたすら恭順の意を表し、寛大な処置を乞うた。

しかし薩長側は、「高松藩兵のため官軍に甚大な死傷者が出た」として強硬であった。

その時、間に立って藩のため奔走する者がおり、1864年の長州征伐の際に長州藩が家老3人の首を差し出した例に倣い、戦闘時大坂詰めであった二人の家老、小夫兵庫と小河又右衛門を切腹させ、その首級を中国四国征討総督府に差し出して罪を謝し、寛大な処置を求めることを勧めた。