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鳥羽伏見戦争までの何人かの落命者

鳥羽伏見戦争そして旧幕派諸藩の討伐の後は、有栖川宮東征大総督の出陣、江戸の無血開城と続くわけだが、その前に、ここで鳥羽伏見戦争までに非業の死を遂げた何人かに光を当てることにしたい。

幕末の尊王攘夷・佐幕開国を巡る激しい争いの中では、多くの命が失われていった。

それは京都や江戸という中央政界においてのみならず、全国の少なからぬ藩でもそうであった。当時勤皇思想は全国に広まっており、各藩の内部にも勤王党・勤皇派を称する党派が生まれ、それが従来からある藩内の派閥抗争とも絡んで何人もの死者を出した。

その抗争は、早期には藩内保守派が勤皇派を抑圧し、その後中央政界で急進攘夷派の勢力が強まると、各藩でも勤王派が藩政への影響力を拡大する、しかし、その藩内勤皇派も、中央で8月18日の政変や禁門の変があると、弾圧を受け、中には壊滅状態となるものも出るという経過を辿った。

話は逸れるが、この幕末の藩内抗争によって有為な人材をどれだけ失ったかは、維新後の新政府内で各藩がどれだけ勢力を扶植できたかに大きく影響したように思われる。

薩長土の中でも、一藩こぞって倒幕の路線を進み得た薩長に対し、土佐藩では公武合体路線を採る山内豊信の締付けが最後まで強く、勤皇派は藩外での活動を余儀なくされ、藩外で多くの有為な人材が死に追いやられることになった。このための人材不足から、明治政府内での勢力争いで土佐藩は薩長両藩に遅れをとることになった。

明治に入ってから「薩長土肥」と言われるようになった肥前佐賀藩は、幕末の藩内抗争もなく、ひたすら藩士の教育に勢力を注いでいた。一方、隣の福岡藩では、この時期筑前勤王党の活発な動きがあり、それに対して1865年には「乙丑の獄」と呼
ばれる大弾圧があった。この獄によって7名が切腹、15名が斬首、他に流罪・追放など、100名を超す者が処分され、筑前勤王党は全滅した。

福岡藩は当時佐賀藩と1年交代で長崎の警備に当たっており、最先進の空気を呼吸できていた筈である。藩主も数代前の薩摩藩主の子で、個人的にも西洋事情に強い関心を持っていたようである。が、佐幕の意思が強かった。

結果的に福岡藩は、明治の政官界で多くの地位を占めた佐賀藩と対照的な命運を辿ることになる。

同様に幕末の抗争で人材を失った藩として、他にも加賀藩や水戸藩がある。話を戻す。

薩摩藩

1867年9月3日、信州上田藩士赤松小三郎が京都で暗殺された。

赤松は兵学者で、京都に家塾を開き、英国式新式兵法の教授を始めると、諸藩から多くの入門者があり、中でも薩摩藩士が多く、薩摩藩の塾の観すら呈したという。

赤松には幕府からも誘いがあった。このため赤松を手放したくない上田藩は、自藩の兵制改革に必要な人材であるとして、これを断り、赤松には早急に帰藩するよう命じた。赤松はそれでもしばらく帰藩を伸ばしていたが、それも続かず、帰藩することになった。

彼の思想については、彼が1867年5月に前越前藩主松平慶永に提出した書面に、天幕合体、諸藩一和、代議政体樹立などの当面採るべき施策が示されていたという。

赤松が殺されたのは、赤松が薩摩藩士に伏見での決別の宴に招かれての帰りとされ、刺客については、門弟の薩摩藩士さらには桐野利秋だと言われている。しかし、その黒幕については触れることが避けられてきているようである。暗殺の理由については、赤松が幕府に迎えられる可能性も残る中で、その公武合体的考えが薩摩藩の討幕派には邪魔であり、また赤松が薩摩藩の内情を知り過ぎていたためとされる。

1862年4月、薩摩藩攘夷急進派の有馬新七たちは、久留米藩の真木和泉などと語らい、関白邸や京都所司代を襲撃しようとした。これを知った島津久光は大山綱良に「有馬たちを説得するよう。聞き入れない時は臨機の処置をとるよう」と言い含めて、有馬らの籠る伏見の寺田屋に送った。

4月23日、結果は乱闘となり、有馬など6人がその場で斬殺され、生き残った2人も翌日藩邸で自刃を命じられた。大山の側でも1人が死んだ。寺田屋事件である。

この日の朝、大坂の薩摩藩邸で、薩摩藩兵の什長永田佐一郎が自刃した。多くの部下が暴発しようと藩邸を出るのを阻止することができなかったため、その責任を取ったとされる。

寺田屋事件で死んだ薩摩藩士は、後に殉難烈士として顕彰された。しかし永田については知られていない。