そぐわない比較だが、百合の場合、生前から彼女との個人的なつき合いそのものがなかったわけだから、つき合いとか関係を持つ持たないというのは全く的はずれの説明になっているのかもしれない。

来栖の中では百合のことは全て未知のままで終ってしまうだろうと思っていたほどだった。ただ一つ『遺書』だけが彼女を知る手掛かりとして残されているという状況で、しかも百合が思いを寄せてくれていた事など来栖は気づきもしていなかったし、彼女の母親と兄の口からそうと聞かされても、まだ半信半疑の状態だった。

これは当然の判断で、それどころか彼自身の気持ちはというと、少しは見知った女性が一人なりと自分のことで思いつめるほどの感情の高まりを日々覚えることもあったなどと想像すると、喜びや優越感など湧いてくることなどなく、むしろ嫌悪感を抱いたのも事実である。

自分という男は男女関係でも積極的に応じてくれる恭子のような女としか親密な関係になることができないタイプだということには手前味噌ながら妙に合点がいった。女性問題に関する結論はいつも自身の性格や行動パターンに照らし合わせて出てくるものだった。

恭子の場合、彼のほうからも積極的に近づこうとした態度がむしろ行動パターンとしては例外だったようにも思えてくる。高校生の頃からの経験では、つき合いのきっかけを作ろうとする出だしでは前向きに相手に近づこうとするのだが、その後の展開としては女性に対して殆ど受動的な対応に終始するようになってしまうことが圧倒的に多かった。

その体験を踏まえ、来栖は性格的に優柔不断気味のところがあり、昔流に言うと女々しい性格だと自己を診断していた。当時は、そのように自分自身を突き放して考えることが多かった。劣化した性癖というようなものがあるとすると、この点で彼はその後もそう変わってはいないと認めていた。

特に生前の百合のことでは、彼女の死後、かなりの時を経てやっと少しは彼女の感情の動きを好意的に理解できるようなきざしが出てきたようだと思うこともあった。そのような時には、たとえ不適切なことになろうとも彼女の気持ちに応じてつき合い始めようとする心構えがあってもよかったのにと、自省することもあった。

しかし現実にはそのような準備など全くできなかったし、実際にしなかった自分に嫌気がさすことさえあった。翻って考えてみると、生前の彼女は全く愛着の意思表示などしなかったわけだから、彼としては為す術がなかったのだと、合点するようにもなる。そこで再び平静になれるというか、心の平安を得られることもできた。

※本記事は、2021年4月刊行の書籍『ミレニアムの黄昏』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。