一九五六年に日比国交が回復し、日本の企業のフィリピン進出が始まった。八若は叔父のコネで大阪の繊維系商社のマニラ支社に職を得て、家族四人でマニラに移り住んだ。

一○年近くミンダナオにいたので南部地方の言葉も話せるようになっており、通訳としてその商社のスタッフらと共に、日本への輸出向けの麻、ラワン材、種々の農作物の買い付けに南の島々を飛び回った。

そして、一○年前にGHがマニラに支社(フィリピンの法律に沿って、現地パートナーとの合弁で独立法人とした)を設立する際に、ローカルスタッフとして転職してきた。

GH入社後も、通訳としての力量が買われ、様々な輸出入取引の交渉や契約時には、常に社長のアシスタントとして行動を共にしていた。

会社では、正にフィリピン事情の生き字引のような存在であった。現社長の入木田剛一(いりきだごういち)は、五年前に副社長として来比。そして二年前、前社長の森本修平の帰任により社長へ昇格した。

この時から、海外出張時以外、常にフィリピンの正装であるバロンタガログを着用するようになったそうだ。四五歳という年にしては、大分()けて見える。後退している髪の毛のせいだろうか。

性格は豪放(ごうほう)磊落(らいらく)、重要事項も直感で決めてしまう嫌いがあり、思ったことも抑えられずすぐに口に出てしまいがち。そのため、取引業者とのもめ事が絶えないらしい。余計な一言で身を滅ぼさねばいいが……。

その他に夕食会に参加したメンバーは、森本前社長帰任時に来比した安藤辰巳(あんどうたつみ)副社長(一部の社員から陰で〈アンタツ〉と呼ばれている)、業務部ディレクターの曽与島良之(そよしまりょうじ)、業務部所属で原材料・部品調達のマネージャーの畦上力也(あぜがみりきや)、同じく業務部所属で製品輸出のマネージャーの幾世栄(いくよさかえ)、総務・経理のディレクター志田大樹(しだひろき)、そして志田の下で働くフィリピン人男性と結婚した元日本人女性の二人、総務担当のユウコ・アルベロアと経理担当のキヨミ・メンドーサの計一○人だ。