(1)マニラ人間模様

寮のあるエルミタ地区はホテルや飲食店が集中し観光客が多いため、ツーリストベルトと呼ばれるエリアである。

隙のありそうな観光客を狙うスリや引ったくり事件も多く、また銃を使ったホールドアップも白昼堂々発生しているらしい。街の至る所でストリートチルドレンやホームレスの物乞いたちの姿も目に付く。道路沿いに並ぶ商店の軒下は明らかに客ではなさそうな正体不明の人たちで溢れ、目をぎらつかせながら通行人を観察している。

カモになりそうな観光客が通りかかると、「マニーチェンジ」とか「ビューティフルガール」とか言って寄ってくる。この類のポン引きにははっきり「ノー」と言わないとどこまでもしつこく付いてくるし、一人を振り払っても、いつの間にか別のポン引きが寄ってくる。破れたシャツを着た裸足のストリートチルドレンたちも「イサンピソナ~(一ペソちょうだい)」と繰り返し憐れを誘う声でささやきながら付いてくる。

エルミタとはそんな街だった。だから、寮の同居人であり会社の先輩でもある幾世からは、「暗くなったら一人歩きはするな」とか「明るい時間でも人気(ひとけ)のない所には行くな」と、何度も繰り返し注意された。

しかし、正嗣はそんな街をなぜか新鮮に感じていた。

この街で暮らすことは危険と隣り合わせだし、危険から逃げようとすると却(かえ)って危険は追っかけてくるような気がした。それならいっそ危険と向き合おうと思った。寮と会社の距離は歩いても二○分程度だ。初めの内は会社に行く時は幾世と一緒にタクシーに乗ったが、慣れてくると行き帰りとも一人で歩くようになった。

日本人相手のナイトクラブの多いマビニ通りや白人向けゴーゴーバーが軒を連ねるデルピラール通りを歩くと何度もポン引きに声をかけられたが、断り続けていたらその内に誰からも声がかからなくなった。顔を覚えられたこともさることながら、あいつに声をかけても無駄だとポン引き同士で情報交換しているのかもしれない。