日本編

農作業、家事手伝いと家の新築

政裕が丹波に送られた本当の理由がわかってきた。

純造叔父は畑仕事、山の手入れ、家の新築のためのその山の樹木の伐採や大工の手伝い、その他家事、雑用一切などに小学生の政裕を利用する魂胆だった。

一人の大工が泊まり込みで家の新築が始まった。

大きな檜や杉などのあった山で、大工は政裕に木の伐採などの山仕事を教えてくれた。切り出した樹木をロープで引きずって屋敷まで運ぶ手伝いや、村の入口近くの製材所に車力に積んで運搬する手伝いなど重労働だった。

大工は腕の立つ立派な大工だといわれていたが、無口で黙々と仕事していた。政裕はいつもそばにいて手助けしていた。それがむしろ面白かった。

日曜日も休まず、学校に行かなかった日もあった。同じ部落に同級生が七人いたが一緒に遊ぶ暇はなかった。

敷地の整備、神主にお祓いをしてもらって、建屋の大工仕事が始まった。

リヤカーを借りて屋根瓦を下地部落の瓦屋に買いに行ったこともあった。壁は縦割りにした竹を細縄で格子に編んで壁の芯とし、小さな池のような囲いの中に水を入れ、赤土と五センチほどに切断した稲わらを足で踏みながら鍬を使って混ぜた泥状の壁土を左官屋が塗り上げていった。

屋根葺きは近所の人たちに助けられるなどもあって、ようやく家の普請が終わった。

入れ替わりに、襖、障子、雨戸、などの建具大工が泊まり込みで働き、水回りの炊事場、風呂場などは左官屋に頼んだ。

住み始めるまでが大変だった。八畳、六畳二間、四畳半、台所のかまどと囲炉裏、玄関の土間は自転車置き場になり二階への階段があり、二階は物置。

政裕にとってこの家の完成まで大仕事だったが、出来上がった新居は住み心地がよかった。

少しは時間の余裕ができたのが嬉しかった。この家に中学から高校卒業まで住んだ。

その屋敷には井戸がなく、井戸を何か所か試掘したが水脈に当たらなかった。

少し離れた分限者の屋敷入口にある水くみ場からバケツでもらい水、裏山から流れてくるいつもきれいに澄みとおった水だった。毎日、ブリキのバケツを二杯天秤棒にぶら下げて五十メートルほどの小路を何回も往復することも政裕の仕事だった。

食事は穀物と野菜だけ、肉と魚は丹波に住んでいる間一度も食べたことがない。朝鮮から引き揚げて大阪に住んでいた純造叔父が里帰りしたことがある。

数日滞在する間、近くに住む彼の幼馴染を招いてすき焼きで酒をのんでいた。政裕は部屋の片隅でそれを見ていた。