感動した。ロータリーには素晴らしい「例会」がある。ロータリーの例会は、皆が童心に返って、お互いをファーストネームで呼び合い、心の洗濯をする時間なのだ。

先日娑婆でイヤなことがあった、仕事上で難しいことが生じた、家庭内で面倒が起きそうだ、それらを忘れてリフレッシュする場が例会なのだ。例会に来た友人の顔を見て安心する、素晴らしい卓話も聞いた、よし、今週も頑張ろうと決意してまた娑婆に向かっていく、これが例会なのだ。例会は、「人生最後の友人」と触れ合える慰安の場でもあるのだ。

ところで、僕のこれまでのロータリー経験を通じて、ロータリアン全般について一番感じたのは「ロータリアンの活力」だ。ロータリアンは皆、性格明朗、快活で人柄の良い人たちばかりだ。やっぱり、一つの会社(組織)を率いてきた人たちだ。自ずと、自信と活力、社員の統率力、他人への説得力、また危機への管理・耐性、など経営者にとって必要不可欠の資質を備えている人たちであることを知った。

そういう人たちが好んで集うロータリーには底知れぬ魅力があるものだな、との感銘を持った。僕は、その基礎には日本の基本的教育の充実があるからだと考える。僕の仕事は大学教授だ。したがって、日本の教育事情にはある程度の認識があるつもりだ。大学進学率が五○%を超える現在では、進学先を選ばなければ、希望者の全員が入学できるだけの定員が用意されている。

日頃、大学生の学識レベルが云々されることがあるが、どんなレベルでも日常生活に困る程度の劣悪なものではない。昔からいう、読み、書き、ソロバン程度の基本は皆マスターしている。今では、それに代わり、読みは「語学力」(英会話力)、書きは「コンピュータ・リテラシー力」(PC操作力)、ソロバンは「会計力」(簿記能力または経営判断力)が必須アイテムになっている。僕たちの時代に比べれば、遙かに地力はアップしていると思う。

僕の務めるTK大学の古いOBたちに冗談まじりに言うことがある。

「貴方たちが、いまもう一度この大学を受験しても、きっと合格できないでしょう」

これは、日本のどの大学でも言えることだ。それくらい日本の基本的教育水準はアップしている。この基本的教育の蓄積が、人間を作り、性格を作り、会社(組織)を作り、そのリーダーに収まっていく。その水準が良質であればさらにそのレベルが上がり、そのレベルに叶った人々の集合体が日本のロータリーを構築しているのであると確信している。