事故に遭った妻は…

念のため用意しておいた野球帽をかぶり、サングラスをかけた。レンガ色のマンションは、昼間の雰囲気と趣を異にし、夜は一層、重厚感が増し、まるで軍艦が漂着しているような佇まいだった。503号室のインターフォンを押した。すると、中から中年の男の声が返ってきた。

「はい、井上です」

「……ちょっと、お目にかかりたいのですが」

達郎は、自分の氏名も名乗らずに面会を申し込んだ。酒の酔いが少しだけ残っていた。が、意識はしっかりとしていた。

「は、どちらさんですか」

見も知らずの人間を中に入れるわけがない。予想した通り、井上は相手の名前をきいてきた。

「石原です」

達郎は、井上に対する怒りを押さえながら、丁寧語を使った。ここで相手を怒らせては、会うことができない。会わなければ、何も解決しない。

「石原さん? ええと、どちらの石原さんですか……」

この段階では、井上は智子の亭主が訪ねてきたとは思ってはいないようだ。

「石原智子のだんなの石原です……」

「……」

相手は沈黙している。やはり、智子と関係していたのには間違いない。一分間ほど応答がなかったので、達郎は、相手が切ってしまったのではないかと思い、再びインターフォンのスイッチを鳴らした。

「は、はい、入って下さい」

井上の声がいくぶん上ずっていた。オートロックの鍵が開いた。達郎は玄関に踏み込んだ。建物の中は、数々の照明によって、まぶしいくらいに白く輝いていた。エレベータに乗り、五階で降りた。手前の角の部屋の数字を見たら、510だった。どうやら一番向こうの端から順番になっているようだ。達郎は、ゆっくり歩いた。

不思議とここまで誰にもすれ違わなかった。物音一つ立たないこのマンションには、本当に住んでいる人がいるのだろうか、と思えるくらい静寂が保たれていた。突き当たりの非常口の隣の部屋から三番目の所に503号室があった。達郎は、チャイムを押した。

こげ茶色の重たいドアが開かれるかと思ったら、チェーンにつながれたまま、半開きの状態となった。部屋の中から、昼間見た貧弱な顔がこちらを覗き込むようにして見ていた。

「何の、ご用件でしょうか……」

井上が眉間に皺を寄せながら言った。その言い方が、とても白々しく、達郎はいっぺんに全身の血が頭に昇ってきた。

「何のご用件という言い草は、ないでしょう。あなたは、私に対して、何か詫びることはないんですか」

達郎は、沈着冷静に発言しながらも、自分のこめかみが怒りで震えているのがわかった。

「……」

ドアのチェーンを外す手が見えた。そして、ドアが開き、男が出てきた。探し続けていた井上信之輔を今、間近に捕えた。頭髪が薄く、顔が細長かった。そして、背が低かった。達郎は、一メートル七十四センチだったが、それよりも十センチ以上低く見えた。智子は、こんな男のどこが良かったのだろうか……達郎は、改めてそう思った。