園原資料館をめぐる、それぞれの思惑

翌朝8時、早めに来た会社の電話が鳴った。オカダ村長からであった。

「今、万葉園原ふれあい館にマサオ議長といるのだが、どこに建った方がいいかなあ?」

唖然。

「会長も来るので、すぐ来られませんか」

それこそ昨日の今日の話、びっくりしている暇も考える時間もない。そんなことを急に言われても。でも放っておいたらどうなることやら。

とにかく出かけた。私の構想は20歳のときからできあがっている。昨日の話はやはりできていた。私の想いに沿ったわけではない。ヤマダ会長にとってはH建設の儲け話。そして何より、新聞に出なかったオカダ村長の水子地蔵がこれで不問となった。

そんな彼らの目論見は見抜いていたが、クマダツネオが必ずこの話を邪魔してくることも感じていた。オカダ村長がまくし立てる。

「水洗便所にしたいって話と、資料館の便所と結びつけたらどうか」

「補助金はつくのか? いい。それはいいよ、単独でやるから補助金は考えなくていい」

「会長! いくらでできますか? 信濃比叡に結びつけた方がいいんじゃないですか?」

次から次によく舌が回ることだ。

「章設計さん、12月いっぱいで設計してくれませんか。そうすれば、2月の予算編成に間に合うから」

これが平成14年(2002)10月の話である。鶴巻荘での密約は、その日のうちにツネオに知られていた。

「今、村長とホテルA会長が鶴巻荘に章設計を呼んで話をつけている」

ツネオに電話を入れたのが、ヤマガミムネオ観光課長(のち参事、共産党員)であった。そんな話を聞けば、ツネオはそれらを許すことができない。そして憎悪のすべては当然のように私に向かう。

章文をやっつけるには、資料館は絶対につくらせないこと。それが彼の一番の目標となったのだ。

12月に入ると様子が変わった。オカダ村長から電話がきた。

「建てる場所だけど園原に限らなくても、たとえばヘブンスそのはらの駐車場とか考えられるかなあ?」

ツネオの妨害が始まったのである。2月11日、信濃比叡火渡り護摩行事の当日、私はオカダ村長とともに万葉園原ふれあい館の食堂内にいた。

「章設計さん、知っていると思うが俺はガンでもうダメだ。ついては、園原資料館のことだが、つまらんことを言う議員がおって、NPOのハネダイツキに研究させているのだが、ここは場所が悪いというのだ。場所をこの横の田んぼに建てたらどうかなあ?」

「前の田んぼ? 秀二さんの田んぼと千鶴さんの田んぼにですか?」

「前の案は前の案でいいので、二つの案を出して議会に決めさせたいのだ」