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ジーンへの新しい企画の提案もほとんどなくなっていた頃、サミュエル・ゴールドウィンからMGMへ「野郎どもと女たち」('55)の主役のギャンブラー、スカイ・マスターソン役の依頼が舞い込む。

ジーンは大いに期待したが、MGMはその依頼を一方的に断った。彼は激しく憤った。

「スカイみたいな役は、一生に一、二度来るかどうかっていうくらいのものだ。パル・ジョーイの時がそうだけど、奇跡中の奇跡なんだ。ゴールドウィンはその二回目の奇跡を起こすはずだった。僕はスカイを演じるために生まれてきたんだ。ゲーブルがレット・バトラーを演じるために生まれたのと同じようにね。それをMGMの馬鹿野郎が貸し出しを断ったんだ(62)」

彼とエージェントのルー・ワッサーマンは慌ててニューヨークへ飛び、ニコラス・スケンクに会った。出演を許可するよう懇願する二人だったが、スケンクはゴールドウィンとの過去の経緯を理由に首を縦に振らなかった。

打ちひしがれてハリウッドに戻ったジーンにゴールドウィンは二ヶ月待つと言ってくれたが、事情は変わらなかった。マスターソン役はマーロン・ブランドに決まった。

ミュージカルの製作も減り、MGMに自身の居場所がないと感じたジーンは、一九五六年ついに契約解除を申し出る。交渉の末申し出は許可されたが、次のような条件付きであった。

彼がMGMでもう二本の映画を作ることと、ジーンが当時準備を進め、独立プロダクションを通じて公開予定だった映画「ハッピー・ロード」('57)の先買権をMGMに与えることであった。

しかし、一九五七年の初め、MGMの最高責任者ベニー・タウ(ドーア・シャーリーは五十六年十一月にMGMをすでに追われていた)から連絡があった。主演もプロデューサーも予算も決まっている映画「愛のトンネル」('58)を三週間で撮影する仕事を引き受けてくれれば、「ハッピー・ロード」も上記の二本に含めるという内容だった。

ジーンはこれに応じ、「愛のトンネル」の監督を務めた。撮影はMGM退社後の一九五八年一月から二月にかけて行われた。プライベートでも重大な出来事があった。

「ハッピー・ロード」の撮影中、かねて関係が疎遠になっていた妻のベッツィ・ブレアとの離婚が具体化し、ついに一九五七年四月、正式に離婚が成立したのだ。

十五年間の結婚生活であった。娘のケリーによればこの離婚は彼にとって大きな挫折だったという。仕事においても私生活においても、理想を求めて突き進んでいた彼の姿は過去のものとなった。

MGM最後の作品は、監督も振付けも望まず主演だけの予定で参加した「魅惑の巴里」('57)だった。監督は女性映画に定評のあるジョージ・キューカー、音楽はコール・ポーター。そして振付けは「シアトリカル・ジャズ・ダンスの父」と呼ばれるジャック・コールだった。

ジャック・コールは一九一一年、ニュージャージーの生まれ。バレエやモダンダンスの訓練を受けた後、インドや東南アジアの舞踊を習得し、それらを融合した独自のスタイルを作り上げた。